酒造の規模と広がり

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市域の酒造人の分布と規模をみてみよう。

善光寺領では、延宝八年(一六八〇)に五〇人が前年の半造り令について請書を出している(『大勧進文書』)。それによると延宝七年の造り高で、最大は大門町喜兵衛の一二〇石、少ないものでは三石が四人、ほかに三石を一〇人で造るなど複数で造っているものがあり、小さな酒造が中心であることが知られる。合計は五一三石で、別の史料(『大勧進文書』)では延宝七年には一五六一石一斗とあり、残り一〇〇〇石余の分が不明である。なお、善光寺領の酒屋数は、元禄期(一六八八~一七〇四)には一二軒ほどに減っている(『信州酒の歴史』)から、先述の運上金の付加などにより小規模な酒造人は整理統合されていったものであろう。

 松代町では元禄十年(一六九七)、三〇人で計八三一石六斗八升八合を造っている。二〇一石七斗四升の木町の嘉右衛門が最大で、鍛冶町作右衛門の二石三斗一升が最小である。酒株をみずから所持しているものは一三人で、残りは松代町内から株を借用して、酒造をおこなっている(『市誌』⑬二六八)。

 正徳(しょうとく)五年(一七一五)上田藩川中島領では、塩崎(篠ノ井)、稲荷山(更埴市)、今井・戸部(川中島町)の四ヵ村五人で二五七石五斗二升二合を造っている。この酒造高は元禄十年の三分の一造りが命じられた結果なので、元禄期には三倍の七七二石五斗六升五合を造っていた(『県史』⑦一一九三)。

 以上が比較的早い時期の例で、その後はくだって化政期から天保期の例が知られる。

 「領内ならびに善光寺領酒造株高等元帳」(『県史』⑦九六三)によると、文政十年(一八二七)松代町内に一三人、酒造高は二五三九石一斗五升二合の菊屋伝兵衛を筆頭に一〇〇〇石以上が八人、ほか九〇〇石台が一人、六〇〇石台が一人、五〇〇石台が三人で、計一万六六一二石九斗九升二合となっており、一九世紀前半のいちじるしい増加がうかがわれる。在方では、二九ヵ村三九人、合計七九〇八石六斗二升で、そのうち市域の村々では、一六ヵ村一九人であった。その造り高合計は一八七八石三斗五升で、二七〇石の埴科郡岩野村(松代町)友治が最高で、多くは五〇~八〇石ほどである。市域外では埴科郡新地村(坂城町)の次郎左衛門と彦五郎の両人が一六二〇石と城下町の酒造人と肩を並べるほどであり、更級・埴科両郡内の造り高が比較的大きい。また、天保(てんぽう)六年(一八三五)には松代領内二二ヵ村二六人が一〇ヵ年の期限つき御免株をあたえられている(うち市域は一五ヵ村一九人)。善光寺領分としては、四人計一七二二石六斗があげられている。善光寺領では文化二年(一八〇五)に五人、二一〇〇石六斗あることが知られ(『松代真田家文書』国立史料館蔵)、天保九年の松代藩あて書上帳(『県史』⑦一二九七)では四人が記されており、酒造人数が元禄期よりいっそう減少していることがわかる。

 江戸初期は町場に多くの酒造人がいたものの、元禄期ごろに淘汰(とうた)されて大酒造人が残り、しだいに在方の酒造が増加するといえよう。文化十二年、善光寺西之門町の藤井伊右衛門が、出費がかさみ新酒造人のみが多くでてきたので、酒造をやめ商売がえをしたいと願っている(『県史』⑦一二九一)。また、文政九年の松代領内酒造仲間規定(吉田 長田やす蔵)で、無株のものの存在が問題となっている。これらのことからも、在方での酒造がかなりの量にのぼっていたと考えられる。