酒株の移動と出造り

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酒造をおこなうのに必要な酒株はみだりに増やされず、必要の場合は、他人の所持する株を譲りうけなければならなかった。そのさい、領内とはかぎらず他領であっても売買・貸借の対象となった。

 享保四年(一七一九)、松代紺屋町の近藤与惣右衛門は八田孫左衛門に、一五三石一斗四升分を一〇両で譲っている(『県史』⑦九二八)。このなかで、与惣右衛門は自分の六三石一斗四升のほか、四三本所持する酒株のなかから一本分を加えている。江戸初期に設定された多くの株が、しだいに与惣右衛門や八田孫左衛門のような大酒造人に集中していくようすがうかがわれる。

 文政九年(一八二六)には、幕府領の水内郡牟礼宿(牟礼村)の九左衛門が株高一〇〇石を、更級郡中氷鉋村の源次郎に一八〇両の大金で譲っている(『青木家文書』長野市博蔵)。同年、更級郡稲荷山村(更埴市)の吉太郎は、株高一二石九斗九升七合、酒造米高二二〇石九斗四升九合を五五両で中氷鉋村の青木清左衛門に譲っている。そこには、もともとの株のほかに、「増株九石五斗」分がふくまれており、文化元年(一八〇四)に願いあげたことが記されている(同前文書)。

 また、株の移動はなくとも、出造(でづく)りといって、他人の蔵を借りる場合もあった。天保五年(一八三四)には松代伊勢町の伝兵衛が手狭(てぜま)であるとの理由で、水内郡千田村(芹田)兼助の酒蔵を借り、一七二四石三斗二升八合の米で酒を造っている(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。天保の飢饉の最中でありながら、酒の需要の多さがうかがわれる。

 また、天保十年には、酒造株をもつ水内郡後町村(西後町)恒八が更級郡大塚村(更北青木島町)与惣治(よそうじ)の蔵で出造りをするにあたって規定書を取りかわしている(『中沢総二文書』長野市博寄託)。そこでは、遠方であるとの理由から、造りいれ、売りさばきとも貸し蔵方の与惣治がおこない、年二両三分を恒八に支払うこと、冥加銀も与惣治が納入すること、期限は六年であることがきめられた。これは出造りの形を取った貸し株である。期限ののち、恒八は弘化二年(一八四五)、水内郡笹平村(七二会)吉蔵が酒造商売を始めたいとのことで出造りとして規定書を取りかわし、じっさいは年三両で株を貸している。こうしたほうが商売を始めるにあたっての初期投資が少なくてすむこともあり、出造りとはいっても貸し株のものも多かったであろう。