動力としての水車

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水車は水のもっているエネルギーを回転運動として取りだし、利用することで種々の仕事をする。動力といえば人力や牛馬の畜力しかなかった江戸時代に、水車は貴重な動力源であった。

 水車の動力は多くの場合、米や麦などの精製に利用された。米の場合、精白するために米を搗(つ)くという作業が必要である。食用として精白するだけでなく酒造用としての精米もあり、需要の大きい作業であった。

 搗くという作業のためには水車の回転運動を杵(きね)の上下運動にかえ、その落下の衝突力を利用する。そのさい、杵には、「ばったり」というシーソー式の横杵と上下運動をする竪杵(たてきね)式の二種類があるが、場所をとらずにすむ竪杵が主流となっていった。また、麦などを粉にする場合は、挽(ひ)くという作業が必要となる。そのため石臼(うす)を設置し、上臼を回転させることで製粉する。臼の回転は水車の回転と九〇度違うため、回転方向を直角にかえる必要から木製の歯車が利用された。こうした機構を備えるため臼をもつ水車はやや複雑であった。

 その他、水車の利用方法をみると、藁打(わらう)ち用に使われたり、綿実(めんじつ)(木綿の種)から油を絞るために綿実をつぶす作業が必要で、その作業に臼が利用された。また、天保六年(一八三五)の妻科村(妻科)喜兵衛は新規に綿実水車に切り替えを望んださい、前は線香粉水車をしてきたとのべており、線香をつくるために杉の葉などを粉にするときにも利用されていた。善光寺周辺にはこうした水車稼ぎもみられた。

 精白した米と糠(ぬか)、すりつぶした綿実の大小などを選別するためにふるいが使われるが、この動力に水車を利用した場合もある。ただし、数は多くなく比較的大きな水車で利用された。

 つぎに松代領の水車の状況をみてみよう。水内郡の村ごとの人数・杵・石臼などの数を村別に示したものが表17である。明治初年のものであるが、幕末の状況をおおよそ示しているといえよう。一般的に水車の規模は石臼一つに杵が四つ前後であり、一〇をこえることはほとんどない。数が多くなると臼や杵の抵抗が大きくなり水車は回らなくなってしまうからである。この表では水車の数がわからないが、およそ石臼の数が水車の数を示していよう。ただし杵だけの水車もあるため、石臼の数がそのまま水車の数とはならない。


表17 明治5年(1872)水内郡旧松代領村々の水車冥加金取調帳

 郡別にみると、平均の杵数・石臼数とも高井郡が五一・五挺(ちょう)、一四柄と多く、ついで埴科郡三八・二挺、八・三柄、更級郡三七・六挺、七・九柄とつづき、水内郡がもっとも少ない。高井郡では保科村(若穂保科)が人数二〇、杵数一四八、石臼数三九ともっとも多く、水車稼ぎのさかんな村であった。埴科郡では西条(松代町西条)の人数二五、杵数一七三、石臼数二八、関屋(松代町豊栄)の人数二二、杵数一三五、石臼数三三が飛びぬけて多い。更級郡では石川村(篠ノ井)の杵一九九挺が目立つ。これは領内一である。また犀口三堰(さいぐちさんせぎ)の流域である川中島一帯の杵数が多く、この地が水車稼ぎの優越していた地域であったことがわかる。水内郡は杵数のもっとも多い村でも茂菅(もすげ)村(芋井)の八〇挺が最大で、一〇〇挺をこえる村はなく、全体的に杵数は少ない。これは石臼一つあたりの杵数にもあらわれ、平均で二・二と他郡と比較してだいぶ小さい。これは郡内の山中の村々の杵数が石臼にたいして少ないためで、山中では夜はたいてい粉ものを食べていたといい、石臼による製粉の利用度が高かったことを示していよう。平地の村では他地域と変わらない規模となっている。

 全体的には、傾斜地であることや水量豊かな小河川や用水堰があることが水車を設置するうえでの好条件となった。数の多い村はそうした適地に恵まれていたといえる。なおこのときの冥加永は、杵一挺と石臼一柄が同じで四一文七分、綿実臼(めんじつうす)一柄五〇文、篩(ふるい)一つ一三文三分、篩(ふるい)一つ二〇文八分、藁打ち杵一挺二五文で、綿実臼の冥加永が一番高い。ふるいも二種類あり、一・五倍ほどの違いがある。