水車の拡大と紛争

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水車は『徒然草(つれづれぐさ)』にその記事のあることは有名な話であり、古くから使用されていたが、多くは揚水水車で、動力としての利用は時代が下がる。水車の先進地といわれる大坂の生駒山麓(いこまさんろく)でも元禄以前の記録はなく、大坂の産業発達とともに元禄期以降起こったという(『水車の技術史』)。

 表18から川中島三堰の水車数をみてみると、稼ぎ人は寛政から幕末にかけて微増はしているものの大きくは変わらない。それにたいし、杵数は寛政から天保にかけて急増していることがわかる。寛政十一年(一七九九)の二三の水車のうち、安永四年(一七七五)から始まっていたのは下氷鉋(更北稲里町)・小森(篠ノ井)・上氷鉋(川中島町)の水車三つだけであり、一八世紀末以降市域で急速に水車が広まったことを示していよう。また宝暦四年(一七五四)、水内郡長沼六地蔵町(長沼)の次郎右衛門は、水車三輪を同郡問御所村(問御所町)地先に建てたいと願いでている(『大鈴木家文書』長野市博寄託)。自村に建てるのでなく長沼から遠く離れた問御所に建てようとするのは、水車が一般化してからのこととは考えにくく、やはりこのころから水車が市域に普及してきたとみてよいであろう。


表18 近世後期の川中島三堰水車数

 水車が拡大してくると当然用水をめぐっての紛争が生じてきた。右の宝暦四年に願った次郎右衛門は、水車の稼働は「田方用水不用の時分」にかぎり、また、水は取り揚げ口から二〇間下でもとの用水にもどすので、水を捨てることにはならない、として許可を領主に求めた。これにたいし、差し障りの有無を尋ねられた八幡堰(はちまんせぎ)組合村々からは翌年三種の返答があった(妻科 轟直子蔵)。下高田・上高田・南長池・西尾張部(古牧)、北長池(朝陽)五ヵ村は、堰の分け口に手を加えなければ差し障りなしとした。妻科(南長野)、中御所(中御所)、市・千田・南俣(みなみまた)(芹田)、風間(大豆島)六ヵ村は、八月から三月に大口に水を取りいれると、麦田や堰下田地が冷えあがるかもしれないと不安を示した。北高田・西和田・東和田(古牧)、北尾張部・石渡(いしわた)・南堀・北堀(朝陽)、小島・中俣(なかまた)・布野(ふの)・村山(柳原)一一ヵ村は、この堰は水勢が強いので、寒中水を流すと氷が上昇し、田地・屋敷に水が押しあがり難儀となるとして水車建設に反対した。その結果は不明であるが、冬場の用水に水を流すことでの心配が知られる。三番目の一一ヵ村は北八幡堰の流域で、この堰は増水するとあふれでることがよくあり、そのため他村以上に強硬に反対したのであろう。

 水車の稼働を秋から冬の田用水不要の時期にかざるのは一般的なことで、多くの証文に共通する。始まりは八月彼岸すぎからが通例であるが、終わりは三月下旬、四月苗代のころ、五月半夏(はんげ)前など若干の違いがみられる。安永九年、水内郡中御所村岡田組(岡田町)の儀左衛門が栗田・千田・南俣・市(芹田)、妻科(南長野)、吉原(中御所)の六ヵ村に出した取りきめの一札(栗田区共有)によると、水車堰口に樋(ひ)をつけ、五月半夏より五日以前に組合村々が立ちあい、樋口(ひぐち)に錠をおろし封印をする。鍵は栗田村・千田村にあずける。日限がきたら両村で封印をとる、などがきめられた。このようにたいへん厳重に管理される場合もあった。こうした取りきめを破ったときは水車をつぶされても文句なしとして証文を取りかわすのである。

 栗田村の九兵衛は、差し障りありと村内の源左衛門ら三人に申したてられ、文化九年(一八一二)二月から水車を止めたままにしていた。種々詫(わ)びをいれたが聞きいれられず、やむなく冥加永だけは納入していた。そこで難渋を理由に水車再開を訴えでて、文政三年(一八二〇)内済となった(栗田 倉石佐兵衛蔵)。相手方源左衛門らの主張する点は、九兵衛の水車はもともと押し車同様のもので、近年冥加永を差しだしてから、樋口(水の取り入れ口)が高くなりおおぜいの屋敷に水が流れこみ、糞(こやし)置場や溜桶(ためおけ)に水が入り迷惑している、だから樋口を三尺下げてくれ、というものであった。水車の効率を高めるには水を少しでも高い位置から流す必要があり、九兵衛の水車はしだいに水の取り入れ口が高くなったため、水路から水があふれることがあった。そのため内済で、樋口を五寸下げることとした。三尺の要求は過大であったのか大幅に譲歩した源左衛門らであった。

 天保期に入ると綿実水車が増え、紛争も増加した。天保六年(一八三五)、妻科村喜兵衛は線香粉水車を綿実水車にかえたことで、もともと綿実水車稼ぎをしている同じ妻科村の勇七ら三人に差しとめられた(荒木区有)。この背景には木綿の生産が増大し、綿実油の製造に多くの水車屋が傾斜していったことがある。このことは、天保十二年の油絞り人総代栗田村(芹田)金右衛門が松代藩道橋奉行所へ差しだした、穀水車を綿実水車へ渡世がえさせたいとの嘆願書(栗田区共有)からもわかる。そこでは、油絞り仲間が増加し、綿実の搗き挽きが間にあわない状況をのべ、穀水車を綿実水車に変えさせたいが、従来からの綿実水車稼ぎ人が搗き賃が自由にならなくなると既得権を主張し反対していると記している。

 同年、犀口三堰でも、近ごろ水車が増え水不足となり、さらに綿実臼を願うものがいるとして停止を願っている(『中沢袈裟延文書』長野市博寄託)。このなかで、綿実臼は一柄に杵八挺分の水勢がないと回らないと指摘し、綿実臼が増えると余分な水がなくなり水論となることは明白であると反対意見が記されている。

 水内・更級両郡ともにこの時期水車稼ぎが木綿生産と連動して増加し、規模が拡大した状況をみることができる。