油の製法と職人

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水油は、菜種を①乾(かわ)かす、②煎(い)る、③潰(つぶ)す、④蒸(む)す、⑤絞(しぼ)る、の工程をへてつくられる。乾燥は、晴れていれば一日でよく、曇っていれば二、二日おこなう。しっかり乾燥すればするほど油量も多くなる。乾燥させた菜種は鍋(なべ)に入れて煎る。それを冷まし足踏み式の臼(唐臼(からうす))でつぶし、粉にする。このとき篩(ふるい)をかけすべて粉にする。つぎにその粉を蒸籠(せいろ)で蒸し、麻の袋に入れて絞る。絞り方は二本の「立木(たつぎ)」とよばれる木のあいだに臼を置き、袋に詰めた菜種を入れ、そのうえに石を置き立木の穴に貫(ぬき)をとおし、くさびを打ちこむことで油を絞る(図4・5)。一八世紀中期の勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)が「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」といったとされるが、一度絞って終わりでなく、粕(かす)をこまかく砕き、臼にかけふたたび粉にする。そして、再度煎り、水気をとばし冷ます。それを蒸して二回目を絞るのである。さらにその粕を臼で搗(つ)き、粉にして三回目を絞る。こうして油分をしっかり抜くと油粕も肥料として効き目があるという。


図4 油絞りの図 (『日本農書全集』50巻)


図5 油絞り道具

 なお、絞油の作業に水車を使う場合は、粉にする工程で利用される。つまり人力で臼を踏むかわりに水車で搗くのである。水車絞りは油の抜けが少々悪く油粕の価格も若干安いが、採算性は水車のほうがよい。文化九年(一八一二)の絞油職人仲間の取りきめ(『市誌』⑬二七八)によると、「近年、唐臼踏みを相止め水車に相なり候」とあり、このころから水車が利用されるようになった。また、天保十二年(一八四一)の「油絞り四十五軒惣代金右衛門・惣八より綿実車相掛り候願書の控」(栗田区共有)によると、油絞り人が増加したため綿実を挽く水車が不足していることが知られ、穀物を挽くだけでなく油絞り用の水車利用がすすんでいた。

 油絞りには前述のような道具がいり、また臼踏み・篩・種煎(たねい)りなどに人件費がかかるため相応の資力が必要である。前出の水油盗難訴訟の総代となった綿内村(若穂)宗蔵は持高二五〇石、同じく総代の高井郡高梨村(須坂市)兵六は七五石三斗、須坂村(須坂市)市郎右衛門は三八二石五斗とそれぞれ大高持ちであった。かれらは家内に多くの奉公人を抱え、油絞りをおこなうとともに油商人でもあった。