油絞り仲間

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油絞り稼ぎ人たちは、稼ぎが順調にいくように仲間組織をつくっていた。

高井郡の油屋は、中野組・小布施組・川辺組・須坂組の四組に分かれていた。市域では、綿内村の源太夫一人が川辺組に入っている。寛政五年(一七九三)、かれら七六人は仲間規定をつくった(『県史』⑧八七六)。これには、近ごろ菜種を相場にかかわらず高値で買いとるものがあり難儀をしているとし、菜種は一日に七斗五升を絞り、諸経費は銀九匁、これに駄賃を加え、油や粕のそのときの相場とくらべて相応の利益となるよう値段をきめる、油屋でないものが種場の村に入り不釣り合いの値段で買いとったときはその菜種は購入しないなど、値がせりあがらないようにする八ヵ条の規定であった。かれらは周辺の村から菜種を集め、絞油をし、売りだすところまでかかわる油屋であった。右に述べた綿内村宗蔵が水油や胡麻油を仕入れたもののなかに、この油屋仲間の名前がみられる。

 いっぽう、水内郡の善光寺周辺には、油屋仲間から独立した油絞り職人の仲間があった。「善光寺組油大工(あぶらだいく)仲間」といい、かれらは安永期にしだいにおおぜい(二三人)となったとして安永八年(一七七九)手間賃についてつぎのように油屋仲間と取りきめた(『市誌』⑬二七八)。

 ①油絞り職人の手間は、金一分につき一二人とする。

 ②唐臼踏みの手間は一人銭一二四文

 ③種煎粉の手間は一人銭四〇文

 ④粉篩の手間は銭三二文

 この取りきめで注目されるのは、商売人油屋と対談してきまったということである。つまり、善光寺組の職人は油絞りの技術を身につけた自立した職人集団であって、菜種を集荷し、できた油を販売する油屋とは分離独立していたとみられる。

 天明六年(一七八六)、油屋仲間と紛争が生じ、善光寺組の油大工仲間は一同仕事を休むこととした。一種のストライキである。槙屋(まきや)長之助・油屋源左衛門が仲介に入り、油屋仲間と再度取りきめがなされた。そこでは職人の手間が金一分につき九人へと上がった。また、唐臼踏みの手間も一八〇文へと上昇した。さらに、油屋が勝手に「抱え大工」をすることが問題とされ、油屋が職人を抱えて、油絞りをさせることは、今後いっさいしてはならないときめられた。つまり油大工の仕事を油屋が侵してはならないということで、総じて善光寺組油大工仲間のがわに有利な取りきめであった。

 文化九年(一八一二)には水内郡三輪村(三輪)文右衛門が抱え大工をしたとして問題となり、油屋衆中が同郡平林村(古牧)の油屋彦右衛門を仲介として取りなしをしていることからも、抱え大工問題は油大工仲間にとって生活権がかかった重要事項であった。こうした油屋と絞り職人の関係は善光寺周辺の特徴といえよう。前記の高井郡では油屋が種買いから絞り、販売までおこなっており、そこでは絞りに関しては油屋がわの問題であった。しかし、善光寺組はその絞りの部分が早くから別の組織となっていた点が他地域と異なっているのである。なお、善光寺組の範囲は、文化九年の油大工仲間四二人の出身地からみて(表20)、文字どおり善光寺周辺であった。


表20 善光寺組油大工の出身地 文化10年(1813)

 また、更級郡川中島組の油仲間は、嘉永二年(一八四九)の規定書をみると種の買い入れから卸売までしていることがわかるが、同時に荷負い仲間とも規定書を交わしている(『県史』⑦一〇八八)。荷負い仲間とは油の輸送をにない、あわせて販売もおこなっている仲買人の仲間である。この規定書によって、「油の相場は江戸・高崎・川東・善光寺などの相場を調べ陽気を勘案してきめる。上田や小諸から買いにきても売らない。荷売りや小渡しのときは相場より二合高く売る。川中島油屋が売る場合は相場より一升高く売る。油屋仲間以外からは仲買しない」などがきめられた。川中島では輸送・販売の面が分離し、油仲間とは別の組織をつくっていたのである。