信濃と鮭

622 ~ 623

鮭(さけ)は川で生まれ、翌年川をくだり海に出て、成長したのち三年から五年で生まれた川にもどる母川回帰(ぼせんかいき)の性質を強くもつ魚である。太平洋がわでは、利根川を南限とし、日本海がわでは九州までとれたともいうが、やはり北日本・東日本が中心である。信濃では千曲川・犀川など日本海へ流れでる川に鮭が遡上(そじょう)していた。縄文時代を支えた代表的食糧のひとつが鮭であるといわれるように、古くから人びとの生活を支える重要資源のひとつであった。しかし、昭和十二年(一九三七)に西大滝ダム(飯山市)が建設されたことで遡上がはばまれ、当地域の鮭漁はまったく過去のものとなってしまった。

 鮭は、古くは一〇世紀はじめにつくられた『延喜式(えんぎしき)』の諸国貢進物にみることができ、信濃からは中男作物(ちゅうなんさくもつ)として鮭楚割(さけすわやり)・氷頭(ひず)・背腹(せわた)・鮭子が納められていた。鮭楚割とは鮭の内臓を取りのぞいて干したもの、氷頭とは頭にある透きとおった骨をいい、なますにすると珍重されるという。背腹は背骨についている血を塩辛にしたものである。中男作物で鮭関係を納めるのは信濃・越後・越中のみで、信濃にとって鮭は重要な特産品となっていた。

 戦国時代には武田信玄の子で仁科氏を継いだ仁科盛信は、天正(てんしょう)九年(一五八一)の弥三郎への宛行状(あてがいじょう)で、穂高の狐島(きつねじま)の地(南安曇郡穂高町)とそこでの鮭漁(「鮭川(さけがわ)」と称した)を知行地としてあたえている。狐島は犀川支流の高瀬川と穂高川にはさまれたところで、犀川上流に多くの鮭が遡上していたことがわかる。その途中である市域でも当然多くの鮭がとれたにちがいない。