市域の鮭漁

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江戸時代にも犀川・千曲川の合流地点に近い高井郡の川田村(若穂)、更級郡の真島村(更北真島町)・丹波島宿(更北丹波島)・大豆島村(大豆島)などを中心に鮭漁がおこなわれた。

 大豆島村には、江戸初期の鮭にかかわる文書が残されている。それによると、慶長十六年(一六一一)八月に家康の六男の松平忠輝の重臣が大豆島の百姓中にあて、鮭の「打切(うちきり)」は前々のとおり大豆島村に申しつける。近年は鱸理介(すずきりすけ)が長池村(古牧・朝陽)へ申しつけていたが、理介が死去したので前のとおりとした。もし長池に申し分があれば詮議をするとした(『信史』21九七頁)。長池は現在では犀川からだいぶ離れているが、当時は犀川の乱流により川に近く、そのため鮭の打切を願っていたものとみられる。「打切」とは鮭漁の方法のひとつで、川のなかに杭(くい)を打ちこみ、これに竹簀(たけす)を渡し、途中に図6のように枡(ます)をつくりそこに鮭を導きいれるものである。鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』によれば、越後では渡した竹簀の下がわに竹で編んだ筒をおいてとったという。ついで元和元年(一六一五)七月にも打切を大豆島へ申しつけるので運上を上納するよう命じている(『信史』22二二七頁)。忠輝の改易後、松平忠昌をへて元和四年八月に酒井忠勝が松代城主となり、大豆島村にたいし鮭一〇本につき四本の上納を命じた(『信史』23七頁)。いわゆる四公六民の負担割合である。


図6 簗川の図
(小松芳郎「明治初年の鮭漁と養魚場」(『長野』129号))

 その後、大豆島村では、享保三年(一七一八)に川役として一年に鯉(こい)一〇〇本を上納することとした。しかし、近年川並みが悪く鯉がとれないので不足分は代金納としたいと申しでている。鮭については川並み不定につき、そのときに申しあげて小奉行衆を派遣してもらい残らず差しあげるとしており、決まった本数の上納ではなくなっている(『県史』⑦二二四)。大豆島村では、鮭・鯉を上納することで諸役が免除されていた(『町村誌』北信篇)。

 また、鮭漁をおこなうには冥加金を差しだし許可を得る必要があったが、寛政七年(一七九五)下真島村惣助の鮭漁許可願書によると、「鮭川一ヶ所」として冥加銀二五匁を差しだしている(『市誌』⑬二七九)。文政四年(一八二一)水内郡里村山村(柳原)徳兵衛の願書では三〇匁の冥加銀となっていた(大宮市 小坂順子蔵)。元治元年(一八六四)下真島村の大吉は、この年大雨により千曲川が洪水となり鮭漁が不漁となったため、冥加減免を願っていた松代紙屋町兼兵衛の漁場(矢代舟渡しから犀川落合まで)を引きうけ、さらに三年の鮭川を願いでて許可された(岡沢由往『もう一つの六文銭』)。このとき、大吉が上納を約束した冥加金は金七六両という大金であった。過大とも思える冥加金ではあるが、大吉には成算があってのことであろう。鮭漁はそれだけの利を得る可能性をもっていた。

 では、鮭はどのくらいとれたのだろうか。江戸時代の量を示す史料はないが、明治初年の『町村誌』北信篇でみてみると、更級郡青木島村(更北青木島町)では鮭八〇〇尾を商人へ販売し、同郡川合村(更北真島町)では四〇貫を長野、松代へ売りだしていることなどが知られる。大豆島村では、毎年秋冬に千曲川・犀川の両川へ竹簀を張り、「鮭をとる事莫大(ばくだい)なり」と記している。さきの大吉も「莫大」な鮭に期待していたはずである。

 明治後半から長野県の統計書により具体的数量がわかる(表21、22)。平均して一年間に明治期には二九五貫、大正期には一七二八貫、昭和初期(十年まで)には一万二一四貫となっているが、これはかならずしも実態どおりではないとみられる。とくに明治・大正期の数値は、右の青木島村が一村で八〇〇尾をとっていることから推して少なすぎるといえよう。では実量はどのくらいであったろうか。西大滝ダムの建設にともない、東京電灯(現東京電力)がその補償基準として示したものは、大正元年(一九一二)から昭和四年(一九二九)までの平均で、犀川・千曲川の鮭の漁獲高を一万八五〇〇貫としている。およそこの値が実数に近いとみてよいのではないだろうか。


表21 長野県における鮭・鱒の漁獲高推移


表22 昭和初期における鮭・鱒の郡市別漁獲高

 なお、千曲川と犀川では圧倒的に犀川へ遡上する鮭のほうが多い。これは表22でみると、上田・小県・南北佐久の合計が東筑摩・南安曇に遠くおよばないことからもわかる。その理由としては、鮭の産卵に適する小石混じりの浅瀬が千曲川には少なく、犀川では明科付近に湧水もありその適地が多くあったためとみられている。

 鮭はまた贈答用に利用される魚でもあった。古くは室町時代応永期(一三九四~一四二八)に『市河文書』にその例がみられ、天正期(一五七三~九二)には、山田喜右衛門が直江兼続(かねつぐ)に鮭一尺(一尺は一尾と同じ)を贈っている(『信史』⑮四四二~四四三頁)。慶長六年(一六〇一)ごろには真田信之の夫人が高野山に流罪となっていた舅(しゅうと)の昌幸(まさゆき)に鮭の子を贈っている(『信史』⑲一六一頁)。さらに丹波島宿では本陣の柳島家から加賀の前田家に初鮭を贈っており、一七世紀前半の藩主利常(初代利家の三男)からの礼状がいまに残されている(『柳島文書』長野市博寄託)。幕末安政七年(万延元年、一八六〇)埴科郡清野村(松代町)の藩諸役への配りものなどを記した「定例引継帳」(『市誌』⑬二三五)のなかに歳暮として鰤(ぶり)と並んで鮭を一本ずつ三人に配るようきめられている。役人への音物(いんもつ)としても鮭は利用されていたのである。