杏の栽培

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杏(あんず)は唐桃(からもも)ともよばれ、古くからその種である杏仁(きょうにん)が、咳(せき)止めや吐き気止めの薬として利用されてきた。杏の当地域への導入については、一七世紀前半、三代松代藩主幸道(ゆきみち)の夫人が伊予国宇和島(愛媛県宇和島市)より輿(こし)いれのさい、故郷を忘れまいと杏の苗を取りよせたのが始まりという伝承が残っている。そのほか、武田信玄に滅ぼされた窪寺平治右衛門が安茂里の久保寺山中に居城を築造したときに植えたとか、あるいは慶長十年代に、松代城代花井吉成が川中島の治水と裾花川の改修にあたり一帯に植えたなど、一六世紀から一七世紀はじめとする伝承もある(『杏花の里』)。

 しかし、杏が積極的に利用されるようになるのは一八世紀後半からで、松代藩では、安永年間(一七七二~八一)に埴科郡森・倉科・生萱(いきがや)村(更埴市)、更級郡石川村(篠ノ井)、水内郡久保寺村(安茂里)などに杏の苗木を配布してその普及をはかったという(『松代町史』上)。文化年間(一八〇四~一八)に入ると、現在杏の里として知られる森・倉科・生萱一帯は「花の頃は霞(かすみ)のごとく、末には雪の如し」(鎌原桐山(かんばらとうざん)『朝陽館漫筆』)と形容されるようになっていた。そして、同じく『朝陽館漫筆』では杏の第一は森村とし、つぎに石川村をあげており、領内の春には杏の花が一面満開のようすが浮かんでくる。

 松代藩では、寛政十二年(一八〇〇)に村方の助成になるとして杏の植えつけを領内に命じており、文化四年(一八〇七)にはその改めがおこなわれた。石川村では、前年からきびしく改めがあり、新規に植えつけた分は書きあげよとのことで、銘々に分切りし、きちんと管理することを村内で申しあわせている。加えて木を伐(き)ったものは三〇〇文、見逃し聞き逃しのものは五〇〇文といった過料銭の取りきめもしている(『県史』⑦八〇一)。水内郡千田村(芹田)でも改めをうけ、持主人別帳を作成した(『市誌』⑬二八七)。これによると、一本持ちが二六人、二本持ちが七人、三本持ちが二人で計四六本、ほかに細木など七本が村内の杏の木数であった。また、山中の水内郡鑪(たたら)村(芋井)でも屋敷地・田畑の畔(あぜ)などに杏を植えるよう申しつけられており、文化七年には出精するむね村役人が代官所へ書き上げを提出している(芋井 麻場長男蔵)。

 こうした藩のあと押しもあり、杏が広まっていくが、享和三年(一八〇三)水内郡橋詰村(七二会)が、霧下のため育たないと報告している(『七二会村史』)ように、山中には杏の生育に不向きの場所もあった。里方の小柴見村(安茂里)でも、文化四年に、寛政十二年以後のようすを尋ねられ、近年干ばつのためか育ちが悪く、立ち枯れていると答えており(『市誌』⑬二八八)、里方でもかならずしも順調というわけではなかったが、現金収入の方途として大事にされた。

 杏ははじめ杏仁のみ利用され、果肉は捨てられていたが、果肉もしだいに杏干として商品化され、杏仁、杏干の両方から利が得られるため、植えつけが増加した。天保十年(一八三九)に松代領内各村で杏干・杏仁を売った人数を表23に示した。領内に広く行きわたっているが、川中島から水内郡内に多く栽培されていたようすがみてとれる。安政二年(一八五五)には、更級郡布施高田村・小松原村・布施五明村・同村瀬原田組・横田村(篠ノ井)、原村(川中島町)の各村から計四九俵一一貫五四〇目の杏仁が産物会所あてに出された。そのうち二九俵はすぐに船積みされ、残りは大行司(おおぎょうじ)である布施高田村大太郎の手元に預けられ、会所の指示で出荷されていった(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。また、杏干は森村中条唯七郎の『見聞集録』によると、寛政末ころに矢代宿(更埴市)本陣の源左衛門が始めたとされ、弘化(一八四四~四八)のころには「能(よ)くなりし年ハ当村(森村のこと)斗(ばか)りにても凡(およそ)三百両も益する也」というほどの収入源となっていた。


表23 天保10年(1839)杏干仁村方売買人数

 明治初期における市域の杏・杏仁などのようすを『町村誌』北信篇から拾ってみると、表24のようになっている。森村にはおよばないものの、更埴市域の倉科・生萱と同等あるいはそれ以上の数字を示している。今でも安茂里の杏を記憶している人は多く、現在みられるよりたくさんの杏が花を咲かせていた。


表24 明治初期の杏・杏仁などの生産高と用途