甘草(かんぞう)はマメ科の多年草で、古くからその干した根を薬として杏仁同様利用していた。薬効としては、痛み止め、咳止め効果があった。別名を「アマキ」ともいわれるように、独特の甘みをもつため醤油(しょうゆ)や溜(たま)りの添加物(てんかぶつ)としても使われていた。
薬草は、江戸時代にあっては重要かつ貴重な存在であった。そのため、寛政の改革の一環として、松平定信が栽培を奨励したこともあり、一八世紀末以降諸国に薬草栽培が広がっていった。松代藩でも文政初年に吾妻(あがつま)銀右衛門を城内薬園養育懸りに任命し、松代城内に薬園が設置された(『松代町史』下)。
甘草はもともと市域にあったものでなく、ほかから移入されたものであった。天保五年(一八三四)の吾妻銀右衛門の口上書(『松代真田家文書』国立史料館蔵)によって甘草の来歴をみると、甲斐(かい)国(山梨県)にあった民間の薬園(これは享保期につくられた)より漏れでた甘草を手にいれ、文化十四年(一八一七)にほかの薬草とともに国産の品とし、また村々の助成にするべく試みに植えたという。なかでも甘草は、利潤も大きいので栽培を広めようとしたが作るものが少なかったといっており、一九世紀初期には甘草栽培は一般的ではなかった。
その後銀右衛門は、天保二年に更級郡上横田村(篠ノ井)与平太ら四人に、①三年後に売りだすまで苗代金を貸す。②売上金でそれを相殺(そうさい)し利潤を折半する。③もし売上金で経費がまかなえないときは補填(ほてん)する、との条件で作付けさせた。三年目の天保四年に出荷したところ利潤が大きく、これを聞きつけ甘草栽培を望むものが増加したという。こうして甘草栽培がしだいに銀右衛門の目の届かないところまで拡大してきたため、かれは、冥加金を藩に納入させ、自身を取締方に任じてもらいたいと、その口上書でのべている。天保期の甘草の広がりがうかがえよう。
この申し出をうけた藩の対応をみておこう。天保五年といえば天保の飢饉(ききん)の最中であり、藩としては夫食(ふじき)米の確保が最優先で、銀右衛門の申し出をいれて甘草栽培の公認へとは踏みきれなかった。というのは、養蚕の盛行とともに桑の栽培が拡大し本田畑にまで植えつけられたため、食用にならない草木を本田畑に植えてはならないとし、本田畑に植えた分の掘りとりを命じていたためであった。甘草も桑と同様と考えられたのである。けっきょく、凶作のときの夫食に差しつかえないよう、囲穀(かこいこく)をすませた村で、なおかつ甘草の利潤で麦を別に囲穀することで許可するとした(「勘定所元〆日記」)。
また『見聞集録』によると、弘化二年(一八四五)埴科郡岩野村(松代町)などで甘草栽培が流行していることが知られ、岩野村(松代町)孫八の話として、その起源や流行のようすが記されている。
それによると、栽培の始まりはやはり吾妻銀右衛門で、文政十二年(一八二九)のことであった。銀右衛門は岩野村の友治・倉吉・三郎兵衛三人とともに甘草を植えた。二年目に銀右衛門は肥やしをやると三〇〇両になるといったが、三人は信用せずそのまま三年目を迎えた。三年目に掘りとってみると、二〇〇両にもなり肝をつぶしたという。それから人にもすすめたが、「山親父にだまされ、何をいう」と信用されず、また凶年には値も下がり、食い物にもならず過分の出費があるとして掘りすてるものがあり、倉吉のみ継続して栽培していたという。かなりの利益があがるものの容易に信用されなかったようすがうかがえる。その後、弘化のころになると岩野村一村で掘り賃だけで一日二両二分にもなるほどとなった。このころ盛行した村として、岩野のほか、更級郡横田(篠ノ井)、埴科郡東寺尾(松代町)、高井郡川田・綿内・通久保(若穂)があげられている。千曲川の川辺の村が多く、ここの甘草は格段によいと遠国で評判になったという。この一帯の甘草は、上田町の上野屋(こうずけや)佐五兵衛という商人がきて買いとっていたが、岩野村だけはすべて綿内村の佐右衛門が買いとり、越中富山へ送っていた。佐右衛門は「いくらでも作ってくれ、私一人で一〇万両も買う」と豪語していたという。
ではどのくらいの利益が見こめたのだろうか。さきの銀右衛門の口上書によると、一反につき、年々一二両の作徳があるとしている。もし生産が増加し、値段が下落したとしても、そのころには苗の代金が不要となるので年々一反につき八両ほどの利潤となるとしている。また値段が下がれば、国中で醤油・溜りに使用するようになるので値段も上昇するとみている。さらに甘草は、麻・藍(あい)・煙草・油種・木綿などの平均値段の一〇倍の作徳があるともいう。うまく軌道にのれば有利な作物であった。『見聞集録』には一攫千金(いっかくせんきん)的な話として、東寺尾村の大工村右衛門が五〇〇両も稼いだとか、筑摩郡麻績(おみ)宿(東筑摩郡麻績村)では三三年目に掘りだした甘草が四〇両になったというような話が伝えられている。