具体的なようすをみてみよう。天保六年(一八三五)、更級郡中氷鉋村(更北稲里町)では一二五坪余の地に、苗三〇〇〇本を植えつけた(『市誌』⑬三〇五)。囲いのために、杭(くい)三〇本、朶(そだ)三駄、竹一〇輪、番小屋入用など、銀一〇匁と銭三貫三五〇文の経費をかけた。また肥やしの仕入れ桶(おけ)を新調し、桶二本分の材料を保科から取りよせ、桶師につくらせた。なお、甘草の栽培は、金肥の投入を前提としてした。
弘化三年(一八四六)の綿内村では、堀内半右衛門と慶作の両人が、慶作の小作地を利用して甘草を栽培するため規定書をつくった(綿内 塩野茂一蔵)。これによると、
①小作代は年々折半する。
②甘草の植えつけから手間代・糞(こやし)代も同様に折半。
③運上銀も同様に折半。
④甘草苗代は半右衛門が出し、この分の利息は年一割とし、それを年々折半する。
⑤甘草を売るときは、一人で取りはからいせず、両人相談のうえ、売りわたすこと。
⑥仕入金・諸入用分を売り上げから引き、そのうえで損得とも両人で折半する。
以上のような内容であった。苗は前年の弘化二年に二九貫一〇〇目(約一〇九キログラム)、三年に四貫一〇〇目を植えつけてあり、弘化三年から出荷を始めている。
この年の経営状況をみると、総経費が金四両一分銭七七三文、この半分が一人分の経費で二両二朱三八五文(史料のまま)、差し引き慶作へ渡された分が一両二朱一四七文となった。つまり、経費の半分と慶作への渡し分、三両一分五三二文が一人あたりの売り上げとなり、この二倍の六両二分余が総売り上げとなる。
もうひとつ嘉永三年(一八五〇)松代町八田家の堂島甘草畑をみてみよう。同年の見積書(『松代八田家文書』国立史料館蔵)によると、この堂島甘草畑は二〇〇〇坪あり、うち一〇〇〇坪は四年育成もの、残り一〇〇〇坪は二年育成ものの甘草であった。甘草は、貝原益軒の『大和本草(やまとほんぞう)』によれば植えてから三年後に取るとしている。さきの吾妻銀右衛門の試作でも同様三年、前にのべた綿内村の例では二年目から出荷しているが、ここではより太く育成しようとしたのか、四年たったものを出荷しようとしていた。嘉永三年は四年もの一〇〇〇坪分の出荷見積もりで、一坪につき一貫五〇〇目、計一五〇〇貫目の見込みで、うち太根(ふとね)が五〇〇貫目・代金二五両、細根(ほそね)一〇〇〇貫目・代金一〇両、計三五両で、掘り銭一一両をみて、差し引き二四両の利益と見積もっている。
同様に嘉永五年には残り一〇〇〇坪の見込みとして、一坪あたり二貫目、うち太根六六六貫目・三三両一分余、細根一三三二貫目・一三両一分余、計四六両二分二朱余、掘り銭一三両を引き、三三両二分二朱余の利益を見こんでいた。
じっさいにはどうであったろうか。嘉永五年十一月の仕切状(『松代八田家文書』国立史料館蔵)でその実状がわかる。これによると、この年一二一二坪から、太々(ふとぶと)甘草一八〇貫目、並太(なみふと)甘草四七三貫五〇〇目、細甘草四六七貫一〇〇目、計一一二〇貫六〇〇目を掘りだした。その代金は三六両余で、掘り取りの経費に九両三分二朱余かかったので、差し引き二六両二朱余の利益となった。当初のもくろみより二割増しの面積から掘りとったが、予定の二〇〇〇貫目にはおよばなかった。しかし嘉永三年の見込みと同じほどの利益にはなったといえる。
こうして幕末に一定の広がりを見せた甘草栽培は、藩の産物専売の仕法に組みいれられていく。しかし甘草は明治期には伝わらず、『町村誌』東・北信篇にもその記述はみえない。理由は定かではないが、出荷までに通常三年以上の年数がかかり、また相応の経費も必要で、利益は大きくとも維持していくことがむずかしかったのではないか。『大和本草』の甘草の項に、「鼠(ねずみ)好ンテ食シテ、根タヘヤスシ」とあることから、安定して作付けができなかったのかもしれない。また、より現金収入の得やすい養蚕など別方面に力を入れていったことも要因と考えられよう。