松代藩の統制

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杏や甘草の栽培が増加し、領内の特産として一定の生産量となると、その利益に注目し領主がわは統制をはかろうとする。松代領では杏や甘草の生産そのものには課税せず、仲買人に鑑札を下付し冥加金を取ることで課税・統制をはかった。

 杏仁・杏干については、松代藩は文政十三年(一八三〇)に村方へ鑑札制について打診してようすをうかがった。それにたいし、石川村では、今まで時期になると諸方から商人がたくさんきて、値段がせりあがった。今後札のあるものへのみ売り払いとなると、こうしたせりあがりがなくなり不都合であると返答している(『県史』⑦八一八)。森村でも同様の理由で反対を返答しており(『更埴市史』②)、各村々が共同して抵抗したとみられる。そのためか、ここでの鑑札制は見送られた。

 天保四年(一八三三)松代藩に産物会所が設置され、絹・紬(つむぎ)の専売制が始まるなど、藩の国産品統制が本格化すると、杏干・杏仁もそこに組みいれられ、仲買人仲間がつくられ鑑札が下付されることとなった。この仲買人数を示したものが表25である。一札は毎年願いでたうえで交付されるので、その数はつねに変動するものであった。そのなかでは天保期が多く、商品流通の発展とともに天保の飢饉による農作物の減収を補うため杏に向かったとみられる。


表25 村別杏干仁仲買人数

 天保五年の仲買人仲間の取りきめ(『松代八田家文書』国立史科館蔵)によると、荷出しのときは、行司・世話役が立ちあい、不正のないようにする。一人の勝手な買い取りはしない、相場は四月中に寄りあってきめる、買いだし開始の日限をきめるなど、仲間内での無用の混乱を避けるようきめられた。

 その後、嘉永元年(一八四八)に、佐久間象山の発案により甘草とともに藩の専売品とされ、大坂商人の炭屋彦五郎のもとに送って販売することとなった。松代からは八田伝兵衛が産物方元締(もとじめ)役となり、領内の甘草・杏仁を越後今町湊(いままちみなと)(新潟県上越市直江津)から船積みし、大坂へ送ることとした。この二品は、他国にはない産物で交易の品としてはたいへんよいと炭屋がわに認められた。そして大坂からは塩・蝋(ろう)・砂糖・鉄類・畳表などを船積みにして送ることとした。そのため仲買の統制をしていなかった甘草も嘉永三年に鑑札が下付された(『松代八田家文書』国立史科館)。表26がその人数であるが、杏干・杏仁にくらべると数は少ない。


表26 嘉永3年(1850)甘草商売鑑札請け人数

 さて、この杏仁・甘草の専売は、嘉永四年には失敗し、同七年に再度おこない、安政二年(一八五五)には杏仁のみの専売をおこなったが、ともに短期間でことごとく失敗してしまった。その理由はなんといっても藩を経由しない抜け荷の横行である。

 安政三年のようすをみてみよう。この年松代藩では、善光寺町商人が久保寺村(安茂里)に入りこみ杏仁を買いとっていること、また上田町の上野屋佐五兵衛の買った杏仁が、矢代宿を通ったことなどの情報を入手した。そこで川田宿(若穂)の問屋西沢又右衛門に産物会所より取り調べが命じられた。又右衛門の上申書(『八田家文書』国立史科館蔵)によると、善光寺東町の鼠屋(ねずみや)磯五郎は、七升ほど買ったといい、北国筋の注文のほかは残らず会所へ差しだすとのべ、四、五俵の上納を見積もっている。善光寺新町の上野屋定治郎は、久保寺村ではお触れにより売ってくれないので、横籠(よこかご)商人より買いいれ、五俵を主人にあたる上田町上野屋佐五兵衛へ送ったことを認めたうえで、買い入れ分は残らず差しだすとしている。善光寺大門町の永寿屋太七は、一一俵ほど久保寺村から買いいれ、昨年は藩へ出さなかったが、今年は残らず差しだす予定で、八俵ほどになるといった。大門町の小野屋伝兵衛は、二俵買いいれ、藩へ差しだすつもりだったが、今年はものが少なく昨年の一〇分の一ほどで、年々注文を受けて送っている北国筋の新潟や出羽・奥州の注文分も買いいれがむずかしいので、今年も上納は御免願いたいといっている。このように鑑札をもつ善光寺商人でもかならずしも藩の思いどおりにはならず、上野屋定治郎や小野屋伝兵衛のように他領・他国との従来からのつながりを重視しているのである。また、上野屋定治郎の言から「横籠商人」なるものの存在も知られる。仲買をとおさず、売れるところをめざす無鑑札の商人の姿であろう。仲買人仲間からは取り締まりの願いが出されるものの、止められるものではなかった。また、他領から入りこみ買いあげていく商人もいたであろうし、生産者がわの自由販売もあった。幕末の藩の専売にはこうした統制しきれないほころびがあり、短期間で失敗していったのである。