諸稼ぎの増加

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一八世紀後半以降、商品経済の波が村々にも波及してくると、庶民の衣食住の生活が向上し、さまざまな稼ぎがみられるようになる。この稼ぎと諸職人の例を示したのが表27である。


表27 宝永3年(1706)上田領川中島村々諸稼ぎ

 更級郡の今井村(川中島町)・塩崎村(篠ノ井)を中心にみてみよう。両村とも北国街道や北国西街道に沿った村で、商いをするには好立地の村であるが、一八世紀初頭にはそれを利用した商いなどはみられない。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(『大日本近世史科』)によると、今井村で農業以外の稼ぎとしてみられるものは、馬喰(ばくろう)一、鍛冶(かじ)二、酒屋一、猟師鉄砲九挺、そのほか、出家二、座頭一であった。塩崎村では、大工三、木挽(こびき)一、酒屋一、馬医一、馬喰二、座頭一、猟師鉄砲二四挺であった。その他、上田領川中島の村々を示すと表27のようになり、今井、塩崎同様稼ぎらしいものは見えない。近世前期の村々の状況を示しているといえよう。

 これが一九世紀になると表28のように多種多様な稼ぎが出現してくる。その多くは衣食にかかわる商売で、古着を商ったり豆腐・こんにゃくが売られるなど、金銭を利用する生活が浸透しているようすがうかがわれる。今井村の小間物店一〇軒や塩崎村北郷の小商い一三をはじめ、揚酒屋・茶屋の多さは、北国街道を中心にこの地域の人びとの動きや物流がいかに活発かを物語っている。また小商いの増加は、土地を失うものが増し貧富の差が拡大していった村の状況をあらわしているとともに、小商いでも生きられる世の中になったことも示していよう。


表28 諸稼ぎと諸職人

 今井・塩崎両村と高井郡保科村をくらべてみよう。保科村は、大笹道(保科道)とよばれる上州への道路が通っているが、近世には仁礼宿(須坂市)を通る大笹街道のほうが主要交通路で、保科道の利用は少なかった。そのため、炭焼・水車・猟師鉄砲の多さにみられるように山稼ぎが中心であった。保科村の炭は良質で、松代藩の御用炭に指定されるなど堅炭(かたずみ)の先進地でもあった。在郷町的な存在となった今井村のような往来の活発な地域では小商いが、保科村のように山がちの村では山稼ぎが現金収入の道となっていったのである。

 また、慶応三年(一八六七)の水内郡三才村(古里)は、木綿布商いの九人が目立つが、その他は水車・質屋・穀商売など資力の必要な稼ぎのほか、荒物屋や茶屋・菓子商いなどがあり、職人も大工・畳刺(たたみさし)・鍛冶・鋳掛(いかけ)屋・紺屋(こうや)などが一人ないし二人おり、幕末の平均的な村の姿を示している。