村の職人

642 ~ 646

近世の村にはどのような職人がいたのであろうか。一般に近世には領主が政策的に職人を城下町に集住させたといわれるが、それは村に職人がいなくなったということではない。職人の需要が増加すれば当然村に住む職人も多くなる。

 職人は領主にたいし冥加を納めるが、その書き上げなどをまとめたものが表29である。幕末になると、無鑑札の職人も増えるなど史料の性格上すべての職人を網羅しているとはいえないが、おおよその傾向をみることができよう。これによると、大工・屋根屋・左官・畳刺・指物師(さしものし)(家具製造)など住居にかかわる職人が比較的多いことがわかる。生活水準の向上とともにそれらの職人が必要とされたのである。とくに大工はほとんどの村におり、その需要が大きかった。また、特定の職人が多い村がある。大工の塩崎(篠ノ井)・妻科(南長野)・保科(若穂)・吉田(吉田)・千田(芹田)、指物師の妻科、左官の保科・吉田、紺屋の今井(川中島町)、石工(いしく)の腰(西長野)などである。越村に郷路山(ごうろやま)から石を切りだし加工する石工が多いなど、こうした村はその業種の周辺地域の核となっている村であろう。


表29 市域の諸職人

 嘉永二年(一八四九)の更級郡下布施村(篠ノ井)では、職人は「一切御座無し」と書きあげており、安政六年(一八五九)にも左官一、仕事師一があがっているだけである。こうした村も散見されるが、職人の需要が少なかったわけではなく、他村の職人がそうした村を活動の場としていたのである。

 天保三年(一八三二)三月、上田領では従来小県郡内の職人に水役(みずやく)として労役を課し、他所職人は差しとめとしてきたが、しだいに差し支えが出てきたため水役を廃止して他所職人の入りこみも自由にし、かわりに職人すべてに鑑札を渡し冥加銀上納を申しつけた(『青木家文書』長野市博蔵)。しかし、川中島五ヵ村の職人は以前から水役を負担していなかったので、従来どおり鑑札は下付されなかった。ところが、他所職人がこれを利用し、川中島の職人の名前をかたって、領内に入りこむようになった。そのため、七月には川中島の職人にも鑑札をあたえ冥加上納をさせるようにした。これは増加した職人の藩域をこえた広範な活動が背景にあり、領主がそれを統制しきれず、鑑札制度に切りかえていったものと考えられる。

 他所職人とはどういうものであろうか。天保期の更級郡岡田村(篠ノ井)・中氷鉋村(更北稲里町)でみてみよう。天保八年岡田村の村内職人は大工三、桶(おけ)屋一、畳刺二であったが(青木家文書)、屋根職人として越後国頸城(くびき)郡志村(しむら)(新潟県新井市)から留五郎・音松・要五郎の三人が働きにきていた。三人は一五軒の屋根を一日のところもあれば一九日かけたところもあり、計七九日半かけて補修、葺(ふ)きかえをした。一九日かかったところは岡田村の神社らしく、個人名でなく「拝殿」と記されている。さらに要五郎は別に一人で、八五日半働いた。もっともかかった家は寺沢慶十郎宅で二二日かかっている。そのほか大工弥治兵衛が越後国出雲崎(いずもざき)(新潟県三島(さんとう)郡出雲崎町)からきている。

 天保十四年、中氷鉋村では、村内職人は大工一、左官一のみであったが(青木家文書)、越後や近隣村々から職人がきていた。このうち他国からの稼ぎをあらわしたのが表30である。越後の屋根師丹蔵は、三月十日から十月七日まで一六八日働き、九軒の屋根を葺いた。もっとも長くかかったのは四四日間で市郎兵衛宅であった。同様に、越後の屋根師代吉は三月七日から五月八日まで四五日半、六軒を補修した。ほかには越後から桶師一人、屋根師二人がやってきており、近隣の村からは下氷鉋・広田(更北稲里町)、上氷鉋(川中島町)、久保寺(安茂里)、青木島(更北青木島)から大工が、丹波島・広田から桶師がきて働いていた。近隣の職人が活躍していると同時に、越後職人の多さが注目される。


表30 天保14年(1843)中氷鉋村の他国職人稼ぎ