赤芝銅山の開発

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戦国から江戸時代初期にかけて、諸国の鉱山開発は大いに進展した。武田信玄による甲斐・信濃の金山開発はその代表例で、甲州金として武田氏を支える重要な財源であった。また、一六世紀中葉には石見(いわみ)銀山(島根県)・但馬生野(たじまいくの)銀山(兵庫県)が、一七世紀には佐渡相川金銀山(新潟県)・羽後院内(うごいんない)銀山(秋田県)・羽前延沢(うぜんのべさわ)銀山(山形県)などが隆盛となり、とくに銀は世界的な産出高を誇っていた。

 しかし、一七世紀後半にはしだいに金銀の産出量は減少し、主体は銅山に移行する。足尾(栃木県)・別子(べっし)(愛媛県)・尾去沢(おさりざわ)(秋田県)などが主要銅山であった。産銅の多くは、長崎からの輸出銅にあてられたため、幕府の管理統制がおこなわれていた。金や銀・銅・鉛などの鉱産資源は公儀のものであることが原則であった。しかしじっさいには、幕府直営の足尾銅山のような例もあったが、多くは藩や商人、さらには金山師(かなやまし)とよばれる技術者が請け負って開発経営がおこなわれた。金山師は鉱脈を探して各地を回り、見込みがあればそれを請け負った。かれらのなかには一攫千金(いっかくせんきん)をねらうものもおり「山師(やまし)」ともよばれた。

 埴科郡関屋村(松代町豊栄(とよさか))には赤芝(赤柴)(あかしば)銅山とよばれる鉱山があった。戦国時代天文(てんぶん)年間(一五三二~五五)に、武田信玄によって開発されたといわれ、また江戸時代になって延宝年間(一六七三~八一)に採掘されたともいわれている(『松代町史』下)。史料的に明らかになってくるのは一八世紀からである。以下、その経緯をみてみよう(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。

 正徳(しょうとく)二年(一七一二)、江戸西久保(東京都港区)の万屋(よろずや)喜作が金元(かねもと)(出資者)となり、八~九年のあいだに採堀し、銅を吹きたてたが、資金がつづかず中止された。その後、寛保(かんぽう)元年(一七四一)に下野芦(足)尾(しもつけあしお)村(栃木県上都賀(かみつが)郡足尾町)又八、江戸神田鍛冶町(東京都千代田区)藤助・助五郎の三人が松代藩江戸屋敷に赤芝銅山の採掘を願った。かれらは金山師であり金元は江戸浅草神明門(同台東区)の弥四郎で、翌年金を持参し村へやってきたが、「戌(いぬ)の満水」にあたってしまい、水が引くのを待って山の入り口、細尾という場所に小屋がけして始めた。寛保二年から延享二年(一七四五)まで四年間掘っていたが、銅の出方が少なく思ったほど収益はあげられなかった。当初、藩の江戸屋敷へ願ったときは一ヵ月に金一五両の運上を差しあげるとしていたが、もちろんそれは不可能であった。けっきょく、資金繰りに困り、四年のあいだに金元が、弥四郎から坂木宿(坂城町)本陣宮原安兵衛へ、そして武州本庄(埼玉県本庄市)内田七左衛門へ移り、さらに武州川越(同県川越市)恩田新蔵へとかわった。恩田が金元であった延享二年に運上金七両二分を上納し、一度吹きたてた。しかし、わずかばかりの銅しかできなかったため、けっきょく潰れとなり、皆逃げさってしまった。

 これらの事情は、宝暦十三年(一七六三)四月に関屋村から提出された口上書にみえ、このむね幕府に上申された。この年幕府は、産銅の減少に対処するため、諸国の銅山の点検をすすめ報告を求めたのであった。関屋村ではこの銅山を、銅の出方が少なく、炭・薪なども不自由で「失脚(却)負け」し、引きあわないとして、たとえよい金元がいても掘るつもりのないことを申しのべている。

 同じ宝暦十三年に一色安芸守(いっしきあきのかみ)(政沆(まさひろ)、勘定奉行)御用人高坂文左衛門が、銅山を請け負いたいという願い人がいると松代藩に申しでた。これにたいし差し障りの有無を尋ねられた関屋村では、今まで年貢山を掘りくずされたり山稼ぎの山入りを止められたりと迷惑しているとし、小屋かけ入科・材木・炭・人足賃銭・飯米・みそ・塩そのほか諸入料を金元から前金でもらいうけ、山年貢の引き方を願いでてくれれば差し障りは申しあげないと答えている。以前それらの費用を弁済せず逃げさられてしまったことからの要求であった。このあとどうなったか詳細はわからない。

 文化五年(一八〇八)には中之条代官所支配埴科郡横尾村(坂城町)の甚四郎から、問掘(といほ)り(試し掘り)をしたいと申し出があった。しかし、二年後には銅の出方がよくないと問掘りはやめてしまった。なおこのときの銅掘り職人として、頭取は越前大野郡西谷(にしたに)村(福井県大野市)総右衛門、職人は同所新助、佐久郡大日向(おおひなた)村(南佐久郡佐久町)平蔵、越前大野郡上半原(かみはんばら)村(和泉村)新蔵、伊那郡上殿岡(かみとのおか)村(飯田市)甚三郎の名が知られる。

 文政四年(一八二一)に、田中村(松代町)甚兵衛(甚之助とも)が関屋村字前桂茄子沢(まえかつらなすびざわ)に日数五〇日の問掘りを願いでた。これにたいして関屋村ではいったん差し障りなしと答えたものの、村内でよく話しあってみると、今まで稼人たちは銅山で使う薪を村方から買いいれていたが、このころは雇い人を入れ薪を伐(き)りだしている。それゆえ山が荒れ山稼ぎにも差しさわると難渋を訴えている。しかし、翌年問掘りは許可されたため村ではさらに、前桂の地は今まで銅山師に渡していたところとは山・谷をへだてた場所で、入会札山(いりあいふだやま)年貢を二一ヵ村で上納(関屋村分一八俵一斗四升六合)している場所なので迷惑と申しでたが、けっきょく認められた。これによると当時関屋村内で複数の採掘がなされていたようすがうかがわれ、銅鉱は一ヵ所ではなかった。また、鉱山開発のために遠隔地から人が集まっていることもわかる。