金山師惣兵衛

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天保十一年(一八四〇)江戸本郷(東京都文京区)岩次郎店(だな)の金山師惣兵衛が赤芝銅山によい鉱脈があるとの情報を得て、関屋村喜伝次を通じて掘り方の願いを松代藩役所へ差しだした。惣兵衛はほんらいの在所は佐久郡下中込村(佐久市)で、当時江戸に出ていた。

 藩役所では差添え人もなく身元もよくわからないため警戒し、地元の人別に加わることを条件に許可を出した。よそものでなく村内のものとなれば、配下の職人たちも悪事を働かないだろうとの判断であった。しかし惣兵衛は、見積もりをしてみると莫大な資金が必要で、御領内人別に加わると江戸での資金の才覚に差しつかえると、江戸人別のまま掘らせてほしいと掛けあった。見込みどおり「盛(さか)り山」となれば国益にもなるので聞き届けてほしいと訴えている。

 この交渉の過程で、惣兵衛はもし聞き届けられないならば、一人ででも勘定奉行所へ訴えでざるをえないと、知人の金山師が甲州御嶽山(みたけさん)神領の鉱山の件で訴えをおこし成功した例をひき、強硬な姿勢で交渉した。これが功を奏したのか、藩がわでは訴訟に出られては手数もかかりやっかいだと考えたらしい。再度の願書は差添え人もあり江戸での身元もはっきりしているし、また他所職人は城下にもほかにもいることだからと、預け金一〇〇両を出すということを理由として、領内人別に加わらない形で許可を出した。藩は十二月二十八日、幕府に許可したむねを届けでている。

 惣兵衛は翌天保十二年二、三月ころ関屋村へ出かける予定であったが、病気で延期しているうちに、幕府からきびしい触れが出されて金策に詰まってしまった。このとき、幕府は諸国からの出銅はすべて大坂銅座へ送るよう命じたのである。もっともこの触れは、明和三年(一七六六)、天明八年(一七八八)、寛政九年(一七九七)と出されていたものをあらためて出したものである。惣兵衛や出資者の思惑では、請負方式とし、採掘した銅の相当部分を自己処分して利益をあげるつもりだったのであろう。触れが出されそれがむずかしくなったため、資金が集まらなくなったとみられる。

 そのため惣兵衛は方針をかえ、藩がいまもっている銅を拝借したいと願いでた。藩では約束が違うとして断わったものの、交渉にたけた惣兵衛は、明楽(あけら)忠蔵という人物に仲介を頼んだ。かれは勘定奉行を勤めた明楽飛騨守(ひだのかみ)茂村と同姓で御庭番(おにわばん)ということがわかり、藩ではやっかいを避け、惣兵衛の要求どおり銅の拝借を認めた。惣兵衛はさらに預け金一〇〇両の容赦を願いでてこれも認められた。こうして天保十二年十月に銅二駄、六四貫匁(二四〇キログラム)の拝借をうけ、一〇ヵ条の順守事項を記した証文を差しだした。