鉱泉

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日本人の風呂好きは広く知られているところであり、古くから病気治療のために湯治に出かける風習は存在した。市域には有名な湯治場はないが、しかし、水混じりの温泉などとよばれる鉱泉(冷泉)が存在し、加熱することで庶民の利用に供されていた。市域の鉱泉(冷泉)については、大橋昌人「江戸時代から明治初期の長野市域における冷泉(焚湯(たきゆ))・湯屋(銭湯)」に詳しくのべられているので、以下それをもとにみてみよう。

 明治初年の『町村誌』北信篇にみられる鉱泉を示したものが表32である。この位置を図7でみると、市域西部~北西部、南東部の山麓(さんろく)で、今の行政地区では篠ノ井・小田切・安茂里・西長野・三輪・若槻・浅川・松代・若穂に集中していることがわかる。これらの鉱泉は温度が低いため加熱することで、近世に焚湯稼ぎとして利用されていった。さきの大橋論文から史料的に確認できる開湯時期をみると表33のようになっており、一八世紀末から一九世紀はじめの寛政から文化・文政期にピークをみることができる。当然、鉱泉そのものはそのときはじめて見つかったわけではなく、多くは古くから知られていた。それは鉱泉の湧出(ゆうしゅつ)する地名に、「湯谷」(三輪)、「湯土」・「湯之本」(小田切塩生(しょうぶ))、「湯之平」(若槻東条)、「湯之平山」(若槻上野(うわの))、「湯沢」(篠ノ井小松原)など「湯」の字が付けられているところからもわかる。そして個人的な利用をへて、生活全般の向上にともない鉱泉利用が稼ぎとして着目されていったのである。開湯を願う寛政十一年(一七九九)の水内郡腰村(西長野)の願書に「村方は申し上げるに及ばず、近村あるいは遠方のものどもまでも汲(く)みに寄り、居風呂(すえぶろ)で試したところ」効能が顕著であると記しているところから、風呂の普及が知られるとともに、その効能を利用する焚き湯が稼ぎとなる時代となったといえる。『町村誌』北信篇に記される入浴人数をみると、塩沢(西長野)・茂菅(芋井)といった善光寺周辺の鉱泉利川者が多く、『善光寺道名所図会(ずえ)』にも記載されその繁盛ぶりがうかがわれる。


表32 明治初期の市域における冷泉


図7 市域の鉱泉分布図


表33 開湯時期史料の初出年代

 では、近世の人びとはこれら鉱泉にどんな効能を見つけていたのだろうか。温泉としての成分は『町村誌』に塩気、塩酸の気、硫黄混じりなどの記載があるが、詳細は『市誌』①自然編で分析されている。効能をみてみよう。共通してみられるのは、腹部あたりのさしこむような痛みである疝気(せんき)に効くとしている点である。つぎに多いのは腰痛である。農作業など腰に負担をかける日常生活を送っていた当時の人びとにとって腰痛をいやすことは大きな願いであったろう。そのほかでは、火傷・切り傷・痔(じ)など傷全般や腫(は)れ物・疥癬(かいせん)(皮膚病)・打ち身・瘡毒(そうどく)(梅毒)・冷え性などの効能があげられている。

 つぎに施設をみると、『町村誌』北信篇では「逆旅(げきりょ)」と記される旅館のあるところ、浴場(浴室)の入浴施設のみのところ、湯を汲み利用するだけのところと分かれている。施設の大きさが史料的にわかるものは少ないが、下宮野尾村(小田切)三間×四間(弘化四年)、同郡北郷村(浅川)二間×三間(嘉永二年)、高井郡町川田村(若穂)二間×四間(嘉永七年)などが知られる。その他は「小屋掛け」とのみ記されている。多くは湯坪を設置し沸かし湯の施設をもうけ、簡単に囲いをして、屋根をかけた程度のものとみてよいだろう。なかには藩士の入湯があることを理由として、安政六年(一八五九)藩からの拝借金を利用し湯場の拡張をした埴科郡長礼(ながれ)村(松代町東条)の亀五郎のような例もある(東条 上野晴司蔵)。

 湯屋のような人の出入りの多い場所は、さまざまな問題を引きおこす可能性があった。そのため、松代藩では田畑に差し障りのないこと、他所者(よそもの)の入湯は禁止、大勢集まったり宿泊させたりしないこと、などの条件を厳命して許可している。須坂領の高井郡綿内村(若穂)庄助が村役人に出した規定書(『市誌』⑬三〇七)をみると、より詳細な規定が知られる。

 ①入浴は朝六ッ時(午前六時ごろ)から夜五ッ時(午後八時ごろ)までにかぎる。延長はしない。

 ②男女が入りまじり不義乱雑とならないよう入り口・湯場を分け、みだりがましいことは決してしない。

 ③博打(ばくち)・賭け事・喧嘩(けんか)口論をせず、火の用心に心がけ、各方面に苦労をかけない。

 ④強風のときは、火を落とし渡世を休む。

 ⑤怪しくみえるものは入湯を差しとめ、届けでること。

 ⑥夜五ッ時に表を閉め、出入りをさせないこと。

 これをみると、さまざまな人が集まってくるようすがみてとれる。そこで博奕(ばくち)や賭け事が始まるのであった。茂菅の鉱泉では「博徒の輩(ともがら)多く来たり、入浴して博奕場に等しくなりし故(ゆえ)、村吏制して営業を停止す」(『町村誌』北信篇)と、博奕場同様となったことが記されている。その後再開されたが、また博徒が集まったため停止させられたという。下宮野尾村保玉(小田切)では元治(げんじ)元年(一八六四)、湯屋に近村の若者が入浴にきて、酒を飲みそのうえ権堂の水茶屋通いをしてはなはだ難渋している、経営者も「人気宜(よろ)しからざる」ものなので稼ぎを差しとめてもらいたいと瀬脇村三役人が願いでている(『七二会村史』)。湯屋は庶民のいやしの場であると同時に遊興の場にもなりがちであった。