弘化四年(一八四七)の善光寺地震により、水内郡伺去真光寺(しゃりしんこうじ)村(浅川)の沼地の表面がぎらぎら光り、燃えるガスが噴出した。石油が出てきたのである。石油はその臭さから、臭水(草生水)(くそうず)とよばれ、灯火用などに利用されていた。この地の石油は、『町村誌』北信篇によれば、古来より知られていたが元和(げんな)年間(一六一五~二四)に山崩れで埋没し中絶したと記されている。しかし、天明六年(一七八六)の伊勢御師(おし)荒木田久老(ひさおゆ)の『信州下向日記』や天保五年(一八三四)の井出道貞著『信濃奇勝録』に石油の産出が記されており、江戸中期には知られていた。『信濃奇勝録』によると、上松村(上松)の奥、半里ばかり山路に入った川岸に九尺四方の池があり、三段に掘りさげ水中からわきでる油を藁(わら)につけてしぼりとっているという。雨の日には三升、晴れの日には一斗から一斗五升ぐらいとれた。そして三〇軒ばかりの家は年中この油を利用して、あまりは売りものにした。また、ふつうの灯芯(とうしん)で火をともすと器一面に火が移るので、とっくりに石油を入れ、古布で口をふさぎ芯(しん)としてともす、とその利用法を伝えている。
弘化四年の善光寺地震のあとの、権堂村(権堂町)名主善左衛門の記録(『地質後世俗語之種』)には、半町ほどのあいだに地中から火が噴きだし、一ヵ所では風呂桶を据え、湯を沸かし、別のところでは鍋・やかんをかけ、ものを煮ている、そのほかただ燃えているところもあり、人びとは新地獄とよんだ、と記されている。
これを本格的に採取したのは、伺去真光寺村の新井藤左衛門で、はじめ嘉永元年(一八四八)、風草生水(かぜくそうず)(ガスのこと)を見つけこれを利用して焚湯稼ぎを試みたがすぐに廃業し、安政年間(一八五四~六〇)に越後国頸城(くびき)郡あたりで草生水を採取するところをみて、安政四年から六年に一二本の井戸を掘り一昼夜で約一〇石以上を産出した。しかし質があまりよくなく、使用に困っていたが、佐久間象山の教えをうけ蒸留することでようやくカンテラ焚きに使うようになった。しかし臭気がひどくて嫌われ、ようやく長野町の洗湯屋の灯火として販路が得られたと、藤左衛門の子藤八の書留に伝えられている(町田正三「長野石油会社顛末(てんまつ)記」)。
産出量は『町村誌』北信篇によると一年に二五二〇石余であった。明治に入って石油会社も設立されたが、明治十年代には湧出量が減り、しだいに廃業となっていった。太平洋戦争中にも採掘され、現在、昭和二十二年(一九四七)につくられた井戸が残され保存されている。
また、水内郡鑪(たたら)村(芋井)でも名所草生水沖(などころくそうずおき)から石油が湧出していた。天保十年(一八三九)同郡北平林村(古牧)の六弥と中御所村(中御所)良助の両人は、草生水沖から草生水の油が少々流れでていること、また温泉の気味もあることから地主清右衛門らに借地を申しいれた(『市誌』⑬三〇六)。石油の採取と温泉の稼ぎの両方をねらってのことであった。その後の詳細は不明だが、『町村誌』北信篇には温泉・鉱泉については「なし」とされているところから温泉稼ぎは実現しなかったとみられる。石油のほうは、明治七年(一八七四)に真光寺の石油を利用し石油会社を興した石坂周造が鑪でも採掘を試みたとあるが、けっきょく成功せず埋没してしまったという。真光寺ほどの産出はみられなかったのである。
また石油と関連して『信濃奇勝録』には水内郡宮野尾村(小田切)の火井(かせい)が記されている。土の割れ目から「地気」がのぼり、そこに火をつけると炎がさかんに燃えあがる。秋の畑作物が実るときに、夜中じゅう火をつけておき鹿・猿の防御として利用したという。