水にたいする領主の関与と村

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戦国時代の戦乱と武田・上杉両氏の支配、それ以後たびたびの領主異動のもとで、この地域における用水利用は大きく変化したと思われる。堰の開発以来、特別な権利をもっていた在地中小領主が、戦乱のなかで滅んだり、領主の異動にしたがってそれぞれの土地を去ったりした。そのいっぽうで、武田氏をはじめ広域支配をおこなった領主は、水利体系の改編や用治水事業をすすめたであろう。しかし、その事績はほとんど伝わっていない。

 そのなかで、慶長(けいちょう)年間の松平忠輝(まつだいらただてる)領時代(一六〇三~一六)の、松代城代花井吉成(はないよしなり)・吉雄(よしお)父子による犀川・裾花川の改修と用水路の開削(かいさく)の功績は大きく語り伝えられている。忠輝を補佐した家康の代官頭大久保長安(おおくぼながやす)は、全国各地で当時最先端の技術者集団を駆使(くし)して用治水にも卓抜した才腕を発揮している。おそらく長安は、北信でも花井父子にもまして先進技術によって水利改善をすすめたと考えられるが、伝承のみで史料は残されていない。ただ、犀川・裾花川からの用水路網は慶長年間以前すでに開発利用されているから、花井父子にせよ大久保長安にせよ、その事業はまったくの新規開削ではなく、整備大改修であったと考えられる。

 伝承によれば、犀口三堰の開削について、長(おとな)百姓らを集めて「開発の希望があれば堰ごとに願いでよ」といいわたして、出願を認可したと伝えている(『下堰沿革史』)。ここには、領主が上位の支配権をもち、そのもとで村によって管理運営がおこなわれるという江戸時代の用水支配関係がみられる。

 市域の大半を占める松代領をみると、元和(げんな)八年(一六二二)以後、この地方を領有した真田氏松代藩では、郡(こおり)奉行とは別個に置かれて強い権限をもつ道橋(みちはし)奉行が用水を管轄、支配した。その職務は、①水利施設の見回り、②堰普請(開発・修復)の許認可、③その他水利関係の諸問題(水論など)の受理とその処理などである。

 江戸時代、水利施設の基幹部分は領主が責任をもつ「御普請(ごふしん)」でおこない、村内の部分は村の「自普請(じぶしん)」でおこなうのが通例であったが、松代藩ではほとんどの普請は自普請で、その一部を藩が助成するにとどまった。藩の助成は、普請資材の一部を御林(おはやし)(藩有林)から下付するほか、手充(てあて)として労力の一部を村ごとに定められている郡役(こおりやく)(一人年間二〇〇日の労役負担で、村高に応じ何人と決定)から差しひくことであった。資材については、犀口三堰の場合、笈木(おいき)・白藤(しらふじ)などが虫倉(むしくら)御林(中条村・鬼無里村など)から下付されたが、遠方のため伐採と運搬に大きな労力を要した。たびたびの大水で取水施設が流失して修復するとか、渇水で大がかりな笈を築く場合は、堰組合で出金して資材を買いいれることも少なくなかった。手充については、安永九年(一七八〇)から定例化した。それまで村方からの出願をうけて見分(けんぶん)し、積帳(つもりちょう)を作成して普請を命じていたが、それでは無駄が多いとして、普請の場所と内容を指定し、手充は五ヵ年の実働人足数の平均を算出し、その三割程度に定額化して郡役から控除するもので、手続きを簡素化するとともに支出の節約をはかっている。

 村方から訴えが出た水論の解決については、実情を聴取したうえで内済(ないさい)を命じている。領主が直接の裁定はしないのが江戸時代の原則であった。和談を命じられた扱い人(あつかいにん)(仲裁人)によって調停がはかられた。他領にかかわる問題については、相手役所への訴えに添え状(そえじょう)を付けている。解決にいたらなければ、異領間の争いを扱う幕府の寺社奉行所、さらに評定所にもちこまれる場合もあった。

 多くの村が関係する堰や堤には、堰守(せぎもり)や堤守(つつみもり)を任命して支配した。松代領内の堰守・堤守は、安永六年の「道橋方覚」によると、犀口堰守・小山(こやま)堰守・鐘鋳(かない)堰守・大座法師(だいざほうし)堤守・北郷(きたごう)池守・論電ヶ谷地(ろんでんがやち)堤守で、八幡(はちまん)堰には置かれていない。寛政三年(一七九一)に犀口堰守の更級郡四ッ屋村(川中島町)弥七(やしち)は苗字(みょうじ)・永帯刀(えいたいとう)を許され、二〇石高の諸役を免除されたが、その事由として「三堰は組合村が多く、他領(主に上田領)が入りまじっているところである。村々の相談が行きとどき、とどこおりなく普請人足が出動するように取りはからっており、心がけよく貞実出精」(『市誌』⑬二五六)であるという功績をあげている。堰組合内の他領村々との関係を調整して管理する役割が重視されているといえよう。

 安永六年、犀口堰守から村の出役につぎのような連絡が出されている。「犀口三堰大口屋(や)とり御普請(春の定例普請)来る三十日組合中寄合のうえ、日限(ひぎり)相極め御役所へ願書差しいだしたく候あいだ、村々出役(しゅつやく)中印形持参」。このように、堰守から、犀口懸り出役(各村の代表)にあてて会合通知が出され、その出役の話し合いで春の定例普請計画をたて、資材や人足の出し方をきめ、藩役所への書類を作成している。書類には堰守も署名している。普請は、出役会の決定にしたがって堰守から指示が出され、それをうけて、村ごとに出役の指図で実施された。

 そのほか、道橋奉行所が任命したものに水番がある。道橋奉行の印のある水番の木札を下付して、全体的な配水の差配をさせ、個人的な引水を規制して干損を最小限に防ごうとした。


写真1 水番の木札(天保7年5月)
道橋奉行所の焼印があり、配水の権限を公認されて差配をおこなった(高野区有)

 用水の普請は実質的には村によっておこなわれた。藩から下付される資材もあったが、杭木(くいき)・麁朶(そだ)・縄(なわ)・明俵(あきだわら)・ねこ(筵(むしろ)の一種)など必要資材の大部分は村々が出しあった。労力についてみても、たとえば水内郡北尾張部村(朝陽)が安永四年から同八年までの五ヵ年間に要した普請人足は、村用水堰に二七三一人、八幡堰組合用水揚げ口に二七三三人、八幡山王堰組合用水に三二九人、三重待居組合用水堰に一六五九人、同用水堰村方に四二〇人、計七八七二人であり、年平均一五七四人にもおよんでいる(北尾張部共有)。三割程度が郡役負担から控除されたが、じっさいに出動することには変わりはなかった。労力や費用の負担が大きいため、その賦課をめぐって村と村とが対立し、村のなかでも問題がおこった。