犀口三堰の維持管理

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犀川丘陵の峡谷から犀口(さいぐち)(篠ノ井小松原)に出た犀川は、いく筋かに分流してゆるやかな勾配(こうばい)の扇状地を形成した。右扇の更級郡がわは川中島平とよばれ、扇端は千曲川の沖積(ちゅうせき)地と接している。左扇の水内郡小市(こいち)(安茂里)から大豆島(まめじま)(大豆島)にいたる沖積地は狭く、裾花川扇状地の扇端と接する。

 川中島平は、戦国期に御幣川(おんべがわ)・古(こ)犀川・小島川・犀川が分流したといわれ、近世初頭の慶長十年代(一六〇五~一五)にこれらの川筋に沿って犀口三堰が成立したと伝承される。三堰は当初、岡田堰(布施堰)・今井堰・戸部堰と称したが、のち上(かみ)堰・中(なか)堰・下(しも)堰と改称された。犀口付近から取水する三堰のほか、犀川寄りには小山(こやま)堰が開削された。各堰がいつごろ開削されたかは明らかではないが、堰筋村々は慶長七年(一六〇二)森総検地の石高からみても、近世初頭以前に耕地の開発および堰の整備がかなりすすんでいたとみられる。

 いっぽう、犀川扇状地左扇の狭い段丘上には犀川から取水する小市堰、松岡(大豆島)・大豆島の沖積地には四ヶ郷堰(大豆島堰)が開削されている(図2)。


図2 犀川扇状地の用水堰

 岡田堰・今井堰・戸部堰には当初開削世話人が置かれ、配水権をもっていた。戸部堰の町田家は、元和九年(一六二三)に戸福寺村(篠ノ井東福寺)へ分水するさいに、「用水人足の儀は御指図しだいに差しだす」と約束させている(『下堰沿革史』)。三堰の主要な分水施設は、扇央部の岡田村(篠ノ井)、今井村・戸部村・今里村・上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)にもうけられ、これらの村々は上田領であった。幹線から分水した枝堰(えだせぎ)は扇端に向かって放射状に広がり、松代領流末諸村の水田を灌漑した。松代藩は、堰取水口をもち水掛かり石高の約七二パーセントを占めていたものの、主な分水施設と世話人が上田領に置かれていたので、堰の維持管理が容易でなかったと考えられる。

 寛文(かんぶん)七年(一六六七)、松代藩は四ッ屋村(川中島町)の中沢六郎右衛門を犀口堰守役に任命した。堰守は「堰下村々の願い出があったので申し付ける」とある。松代藩が管理権をにぎった経緯は不明である。以降、中沢家は明治四年(一八七一)に堰守役が消滅するまでほぼ継続してつとめている。四ッ屋村では飯島家と荒井家も堰守役をつとめた。堰守は、藩から郡役(こおりやく)人足四人分を給与された。郡役は、高一〇〇石につき人足が三人あてでこの出人足数一人につき二〇〇日勤めの規定なので、八〇〇人分である。中沢家はこのほか、持高のうち二〇石の諸役免除、苗字・帯刀御免をうけ、三堰村々からは定例の贈り物(金品)をうけている。

 堰守は、道橋奉行に属する道橋元締・道橋小奉行の指図をうけて、幹線用水の維持管理をおこなった。主な任務は春秋の定例普請の費用と人足の割りあて、水揚げ資材の調達である。水害のさいは臨時普請をおこない、そのほか堰水門・樋(とい)の腐朽にともなう建て替えも数年に一度おこなわれた。三堰の普請は松代藩の御用普請であるが、通例の維持管理は組合村々の負担であった。定例普請・臨時普請は、用水組合村々の出役人が明俵(あきたわら)・ねこ・縄・藤蔓(ふじつる)・笈木(おいき)・石などの資材を調達し、堰役(鍵役(かんやく))を動員してこれを指揮した。人足は受益高一〇〇石あたり一日につき三人を出す定めであった。

 享保(きょうほう)十七年(一七三二)の「松代領村々用水組合定」(『県史』⑦七九四)によると、三堰村々の負担はつぎのとおりである。

  上堰  六ヵ村(小松原・布施五明(ふせごみょう)・二ッ柳・御幣川・布施高田・岡田)

    受益高計四三三〇石  人足計一三〇人

    春やどり普請一三日ほど、秋堰水落とし・かこい普請七日ほど

  中堰  六ヵ村(四ッ屋・原・布施高田・会(あい)・今里・今井)

    受益高計三八三〇石  人足計一一五人

    春やどり普請一〇日ほど、秋堰水落とし普請八日ほど

  下堰  一九ヵ村(下氷鉋・大塚・小島田(おしまだ)・西寺尾・杵淵(きねぶち)・中沢・東福寺・小森・広田(ひろだ)・真島・藤牧・原・四ッ屋・上氷鉋・中氷鉋・戸部・今里・今井・上布施)

    受益高計九三三〇石  人足計二七九人

    春やどり普請一三日ほど、秋堰水落とし普請八日ほど

 大がかりな普請のときは松代藩から御林の材木が下付され、普請人足については藩が徴発する郡役人足数から控除するかたちで補助された。しかし、大部分は村々負担であったため、江戸後期には普請費用がかさみ、明和六年(一七六九)には下堰と中堰とのあいだで争われた堰費用の負担問題(切夫銭(きりぶせん))が再燃した。下堰・中堰が隣接した灌漑区域は、中堰の枝堰末流の水が下堰の枝堰に落ち、いっぽう中堰分の田が下堰の枝堰から灌漑用水を得ていた。中堰組合はこれを「交換水」とすることで費用負担の軽減をはかろうとし、下堰がわは正規の費用負担を求めた争論である(『市誌』⑬二五一)。

 犀口三堰の維持管理に変化がおこったのは、明和二年におきた犀川大洪水の災害復旧として堤防が構築されてからである。明和五年に大口水門(図3)が構築され、同七年に口樋・控水門が構築された。水門の規模は、上堰・中堰・小山堰が長さ五間(約九・二メートル)、横二間、高さ一丈(約三メートル)で、下堰は横が三間であった(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)。犀川からの取水は、本流に牛枠(うしわく)類(水制)を設置して水を引きいれ、瀬川(河床につくる人工河川)によって堰幹線へ導水していた。水門の構築によって用水量および土砂の流入が制御されるようになったが、これにともない新たに樋戸番が必要となり、上堰は小松原村(篠ノ井)、中堰は四ッ屋村と今里村(川中島町)が勤めた。下堰は不明である。樋戸の開閉は堰上流部のつごうが優先されるため、末流村々との争論がおこるようになった。また、洪水による水門の損壊あるいは腐朽にともなう修築が堰組合村々の負担を大きくした。


図3 犀口三堰大口水門平面図
上部が犀川に面し、片枠・笈を立てて取水する。左方は水門樋戸図
(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)

 堰の定例普請は、苗代(なわしろ)水の取水に先だち梁手笈(はりておい)を建てこみ、幹線水路の掘り浚(ざら)えをおこなう工事から始まった。文政四年(一八二一)の中堰梁手普請では二間三角笈が三二三挺、九尺三角笈が六七挺、材木類、明俵・縄・ねこのほか、船乗賃一一日分、出役宿茶代を負担した。堰普請では、笈・ねこ・縄・明俵のほか、鍵役賄い料および酒二斗四升七合、定例掛かり物として下堰人足代、堰祭り懸かり、元締への贈り物、出役小遣い料を出費した(『中沢袈裟延家文書』・『小林家文書』長野市博寄託)。この普請に引きつづき、荒塊(あらくれ)水から仕付けまで、仕付け済みから秋の水落としまで三段階にわたっておこなわれた。定例普請・臨時普請は組合村々共同の普請で堰守の管理下に置かれ、枝堰普請は受益村々の自普請であった。分水口の樋、土居木から下流の子堰にいたる維持管理は村々の堰組合がおこなった。

 下堰末流の東福寺村・中沢村・杵淵村(篠ノ井)は、年々灌漑用水が不足していた。下堰枝堰の宮堰掛かりの下布施(しもぶせ)村(川中島町)・西寺尾村(篠ノ井)には余水があるので安政三年(一八五六)に「融通水」を申しいれたところ、和談が成立して分水口付近の土台および土居定め木が建てこまれた。水の過不足は堰守と堰組合一二ヵ村が見まわり、三ヵ年の見試しとし、「双方土居木湛(たた)え普請入料は、その堰懸かり組合で差しだすこと」と定めた(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)。灌漑用水の分水は旧来の水利慣行がきびしく守られたが、変更する場合は堰守・堰組合がかかわり、見試し期間をもうけた事例である。