小山堰と鯨沢堰

674 ~ 676

寛永初年の「松代封内(ほうない)図」によると、川中島平北東部の犀川右岸(更級郡)には丹波島(たんばじま)村(更北丹波島)・青木島村・綱島村(青木島町)、真島村(真島町)のほか、川合村(真島町)、大豆島(まめじま)村(大豆島)、牧島村(松代町)の七ヵ村がある。慶長七年(一六〇二)の七ヵ村石高計は五一一五石で、開発がすすんでいたとみられる。犀川は、江戸後期には河床の低下がはげしくなり、河道が南方へ遷移(せんい)したため、犀川右岸の四ッ屋村や丹波島村では遷移を防ぐ川除(かわよけ)工事がおこなわれた。

 小山堰は、犀口三堰取水口の下流部で取水するので、河床が低下しても比較的揚水が容易である。取水口が三堰と接近し、上流部の堰敷は下堰掛かりの耕地を流れるので三堰と同系列の灌漑用水と思われるが、寛文七年(一六六七)の三堰堰守の管理下には置かれていなかった。近世初頭にすでに開発がすすんでいた八ヵ村の灌漑用水であるが、開発の経緯は明らかではない。享保十七年(一七三二)「松代領村々用水組合定」(『県史』⑦七九四)にはつぎのように記されている。

    小山堰下八ヶ村一〇〇石三人掛り  (丹波島村・青木島村・綱島村・川合村・真島村・大塚村・下氷鉋村・中氷鉋村)

  高四三八〇石

  人足〆(しめ)一三一人

  春四月普請人足日数一六日、三〇〇〇人ほど

  秋水留普請日数二日、二六〇~二七〇人ほど


写真2 下堰・鯨沢堰・小山堰の分水工
鯨沢堰・小山堰は現分水工の左方犀川から取水していた (昭和55年撮影)

 小山堰水門は、明和五年(一七六八)にはじめて構築された。水門の構造や規模は上堰・中堰と同じ規模で、三堰と同様に維持管理機構が確立されていたと考えられる。天保(てんぽう)五年(一八三四)には「丹波島庄兵衛、これまた一生の内郡役(こおりやく)下され候者に付き、小山堰守申し付け」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)とあり、川中島平を灌漑する堰ではあるが犀口三堰とは別系統の管理がおこなわれていた。天保十一年から十三年には堰口留めから掘り普請がおこなわれ、新水門を建てて新堰が開削された(『青木家文書』長野市博蔵)。

 いっぽう、鯨沢(けいざわ)堰は明治元年(一八六八)十一月に下堰から独立した堰で、江戸時代には犀口下堰懸かり一五ヵ村のうち下待居(しもまちい)六ヵ村(上氷鉋・中氷鉋・下氷鉋・大塚東組・大塚西組・小島田(おしまだ))の灌漑用水であった。四ッ屋村(川中島町)の総領待居で分水した堰は小島田堰ともよばれた。小島田堰への通水量が上待居(下堰本堰)よりも多く流れるようになった天明五年(一七八五)、上待居九ヵ村(戸部・上布施・藤牧・広田・寺尾・杵淵・中沢・東福寺・小森)は下待居への水の引き落としが強すぎることを理由に松代藩道橋奉行へ「往古の分け口へ堰筋を掘りあげたい」と願いでた。願いは一年の見試しということで聞き届けられ、上待居(本堰)にくらべて下待居(枝堰)の通水が不利となった(『鯨沢堰沿革概要』)。このような本堰優位の水利慣行による灌漑用水の分配にたいして、下待居の村々はのちに経費負担の改善を求めている。

 慶応四年(明治元年、一八六八)四月十八日、五月八・九両日に犀川が大洪水となり、犀口三堰の揚水が不能となった。松代藩は、犀川をせきあげる工事をおこない田植えができたが、各堰下流部は用水量が不足した。このため同年九月、下待居七ヵ村(小島田村が上・下二村となる)は、小山堰の古堰敷を開削して新堰をつくる計画をたて、道橋奉行と四ッ屋村に開削願いを出した。四ッ屋村と下待居組合とのあいだでは、①新堰の水門口による洪水で四ッ屋村が被害をうけた場合にはいかなる条件をいわれても異議を出さない。②堰掘りによって出る土砂揚げ場が詰まり、四ッ屋村の耕作地に差し障りができた場合は指図にしたがう。③鯨沢堰口左右二〇間あての土堤普請表固めは組合が受けもつ。④峯島堰と鯨沢堰との交差点には、横が六尺、高さ三尺の樋をかけ、建て替え・修繕は永久に組合が負担する、などの条件をきめて、十一月から新堰開削工事を始めた(同前書)。

 松代藩は、下待居の分離独立にさいして堰敷の買収などに便宜をはかり、水利秩序の再編成をすすめた。しかし、藩費の支援要請には応じなかった。長野県は、堰組合が要請した堰敷買収費用一〇〇九円余の下付願いを明治十三年(一八八〇)一月に内務省に出したが却下され、その他費用六五〇〇円余を加えて組合村々で負担した。