操穴堰の開発

676 ~ 680

犀川右岸の更級郡小松原村(篠ノ井)から四ッ屋村(川中島町)にかけての扇状地の扇頂部は、犀川の洪水による土砂が堆積し、開発が遅れた陸(おか)高地域であった。小松原村伊勢社南方の山麓(さんろく)には湧水(ゆうすい)群があるが、湧水灌漑による開発は多くを望めない水量である。陸高地のうち、犀川沿いの荒れ所は万年河原(篠ノ井小松原)とよばれる。この河原の開発は、天明二年に始まるといわれ、弥七堰(開発堰)が開削されて寛政二年(一七九〇)には七石余の水田がみられる。天保十一年には四ッ屋村・小松原村と小市村(安茂里)の九人で一町五反余となっている。弥七堰は、のちに操(繰)穴(くりあな)堰の枝堰となる四ッ屋新堰の前身である(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)。

 弘化四年(一八四七)三月二十四日、善光寺大地震がおこり、虚空蔵(こくぞう)山(信更(しんこう)町安庭(やすにわ))が崩壊して犀川をせきとめた。この水は四月十三日に土石流となって川中島平に押しだし、犀口三堰は壊滅した。洪水によって犀川河床が低下して三堰の揚水ができなくなったため、松代藩は堰の掘り浚えと堤防復旧工事をおこなった。しかし、万年河原には土砂が堆積して弥七堰も押し埋まり、ふたたび荒蕪(こうぶ)の地となった。川沿いの地域では、大洪水のあとは堰の復旧だけでなく、田畑に堆積した石砂あるいは土砂の取りかたづけ作業がおこなわれた。四ッ屋村の本田にも石砂が押し埋まり、堆積の少ない田で平均一寸(約三センチメートル)から三寸くらい、多い田は平均一尺(約三〇センチメートル)から二尺五寸も堆積した。堰守の弥七は人足を雇って持ち田畑の砂石を取りのぞいたが、一尺をこす石砂を取りのぞくには送り掘りをしたため、多くの労力がかかった。作業は弘化四年八月に始め、三四ヵ所の復旧が終わったのは嘉永(かえい)三年(一八五〇)七月であった(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)。

 嘉永二年、小松原村助右衛門らは万年河原を開発するため、道橋奉行へ堰の開削を願いでて許可された。この堰は、船場河原(篠ノ井小松原)から四ッ屋村境まで開削したところで末流村の反対があって中断した。そこで犀口付近の土砂で埋まった堰を掘ったが通水できず、開発は失敗した。

 安政三年(一八五六)四月、犀川の洪水で三堰の揚水施設が大きな被害をうけた。下堰は、口水門の上流一〇〇間が土砂で押し埋まり絶水した。下堰組合は、道橋奉行所の援助で新規の堰筋を掘り割り、ようやく荒塊(あらくれ)水を得た(更北青木島町 宮下恵子蔵)。この当時は、犀川河床の低下にともない三堰の取水口が犀口に集中して新たな堰を開削する余地はなかったと思われる。松代藩道橋奉行の柘植嘉兵衛(つげかへえ)は、安政三年に小松原村助右衛門らの堰開削再願にたいして、竜宮淵(ぶち)上り口岩石下からの取水を許可した。取水地点は三堰が水利権をもつ揚水口上流部にあたるが、三堰からの反対もなく、河岸に埋め樋(うめひ)を設置して導水した。しかし、塩浦山の土砂崩落で施設が使えなくなったため、安政五年十二月、天狗沢(てんぐざわ)上流から取水し隧道(ずいどう)で導水する計画がきまった。工事は藩費で当初一五〇〇両が見こまれた。隧道は「操穴、操抜き穴」とよばれ、延長が三八三間(約六九六メートル)、敷三尺、高さ四尺である。操穴(くりあな)の掘削には飛騨(ひだ)国(岐阜県)・越中(えっちゅう)国(富山県)・越後(えちご)国(新潟県)や赤芝銅山(松代町豊栄)の金掘り職人も使われた。操穴堰の工事は安政六年十二月に始まり、文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)六月に竣工(しゅんこう)した(図4)。


図4 操穴開削工区割(写)年代不詳(『上中堰の歴史』)

 操穴堰は、三〇間の硬い岩石の掘りぬきのほか、瀬川の構築、吹き出し口下の石積み土堤構築、水門三ヵ所構築などで出費がかさみ、松代藩の工事掛かり諏訪部市郎治ほかの役人が費用負担をおこない工事を継続した(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。堰は完成したが、開発場まで水が行きとどくほどじゅうぶんでなく、文久二年六月までに瀬川・操穴などの普請がおこなわれ、小松原村・四ッ屋村に引きわたされた。両村はこれに感謝し「用水路の修繕、御守りは如何様(いかよう)にも両村にて出精」するむねの請書(うけしょ)を出している(『中沢袈裟延家文書』長野市博寄託)。

 操穴堰は、犀口・万年河原を開発する新田堰として開かれたが、川中島平の灌漑用水再編成にはたした役割は大きい。慶応四年四・五両月におこった犀川の洪水によって河床が低下し、上堰・中堰は取水ができなくなった。下堰も同様であったが、上流への取水口移動の余地がわずかに残されていた。松代藩は、犀川の本瀬が八尺(約二四二センチメートル)も低下したため、左右両岸から七ヵ所に沈枠(しずめわく)を設置し、うち三ヵ所には犀川を横断する「三段の締切り」を構築した。この陸揚げ工事で中堰・下堰は揚水できたが、上堰は揚水量がとぼしかった。そこで上堰組合は犀口岩場の上流からの取水を計画し、操穴堰との合口(あいくち)をはかった。松代藩は、合口を認めなかったが、上堰組合は操穴掘りひろげ自普請の許可を得、明治元年(一八六八)に操穴堰と合口し同二年に操穴の拡張工事をおこなった。中堰組合も明治四年に上堰と合口をし、ここに上中堰(じょうちゅうせき)組合が成立した。長野県下では明治初年に新堰の開発がおこなわれているが合口は少なく、為替(かわせ)水(交換水)による事例が多い。上中堰の成立は、明治期における合口による新たな水利秩序形成の最初の事例である。


写真3 犀川右岸の操(繰)穴堰遺構 明治4年に拡幅された操穴遺構には手掘りのノミ跡が残る (平成2年撮影)

 いっぽう、操穴堰(新田堰)組合は明治三年に枝堰の豊守(とよもり)堰を開削し、明治十八年までに扇状地扇頂部の畑田直しを九町六反歩おこなった(篠ノ井小松原 野口一郎蔵)。枝堰開削には松代藩の元工事掛かりが上堰組合との調整役をつとめ、操穴堰が主張する「親堰」の立場を補完する役割をはたした。