犀川の左岸、水内郡に形成された扇状地は狭く、安茂里地籍は河岸段丘面に引かれた小市堰・伊勢宮堰などの小堰による開田がみられる。小市堰は犀川から取水し権現沢・犀沢などの小河川を横断して天保五年(一八三四)には一四町六反余を灌漑した。小市用水は、慶応四年(明治元年、一八六八)四、五月の洪水で河床が一丈二尺(約三・六メートル)も下がったため、町南沖からの取水が不能となった。そこで明治元年十一月、吉窪(よしくぼ)(塩生(しょうぶ)甲)に取水口を設置して導水する操(繰)穴(くりあな)堰開削に着手し、同二年に通水した。同三年には工事を延長し、七〇七間(約一二八五メートル)の掘りぬきをおこなった。操穴は、平均高さ四尺、横三尺五寸で工費は七八二七両であった(『小市史』)。
裾花川の東部には、やや広い沖積地が展開する。千田村(芹田)、松岡新田村・風間村・大豆島村(大豆島)の四ヵ村を灌漑する大豆島堰(四ヵ郷(しかごう)用水)が縦貫し、末流は千曲川沿いに流れている。大豆島堰は千田村地籍の犀川から取水するが、千田村の主な用水は山王堰であった。大豆島村は対岸の川中島平から移り開発された村で、大豆島堰の堰元をつとめた。
宝永六年(一七〇九)、七年は大日照りがつづき、村々は灌漑用水が不足した。千田村も山王堰の水が渇水したため、大豆島堰の水を引く新堰を開いた。これにたいして松岡新田村・風間村・大豆島村からおおぜいの村人が出て堰を切りつぶしたため、宝永七年に千田村が三ヵ村を訴え、正徳(しょうとく)二年(一七一二)に幕府の裁許がくだるまで争論がつづいた。千田村の主な主張は、①四〇年以前に風間村・松岡新田村が新田開発をするというので、千田村高地内を掘割りさせ、干損のときは取りつぶしてもよいという証文がある。②がんらい堰筋をもっていない出村の大豆島村が二ヵ村に加わり、堰の切りつぶしをしたのは不届きである、の二点であった。三ヵ村の主な主張はつぎの四点であった。①三ヵ村用水(大豆島堰)は往古に市村(芹田)前の犀川から取水してきたので、千田村の堰水借用を断わった。同村が新堰を掘り、大土井で水をぬすんだので中止を求めたが聞きいれられず、やむなく新堰と土井を取りのぞいた。②手形・証文は、小百姓個人が借り水したものである。③大豆島村は本田に大堰の用水を使用し、正保(しょうほう)の国絵図には犀川の北に記されている。④古来の大豆島堰をつぶせば、三ヵ村および堰下が亡所となる。この三ヵ村の主張はほぼ認められ、用水配分は、裁許により千田村二分、三ヵ村八分の水利慣行が定まった(『千田連絡会文書』・大豆島 田中雄一郎蔵)。
大豆島堰の堰筋は、洪水による被害は少なかったが、犀川の川瀬が変わるので揚水口が変動した。文化七年(一八一〇)には揚水ができなくなり、荒木村分地に仮堰を設置した。四ヵ村組合用水(正徳年間までは大豆島堰、三ヵ村用水と記される)は荒木村に一札を差しだし、①起き返りのときは、年貢その他和談をおこなう、②川瀬が直ったら揚げ口を引きもどす、③堰の掘り浚(ざら)えをするときは荒木村へ届けでる、④北国往還の橋は荒木村が差配し、入料は堰組合が差しだす、と約定した(大豆島共有)。
江戸時代後半には、堤防の構築にともなう水門の構築がおこなわれた。文化十四年、市村地内に川除土堤(かわよけどて)が築かれることになり、四ヵ村用水組合は水門を新設した。これにたいして市村両組は、同十四年に感謝の礼状を出している。天保三年(一八三二)の国役御普請のさいは、土堤が四ヵ村用水大口水門の上続きとなるため、水門を確保する請書をとって同意した(松岡共有)。安政六年(一八五九)四月、大口水門の新規建てこみ御普請がおこなわれることになり、組合は出水にそなえて明俵(あきだわら)・中縄などを銘々がもちよれるよう態勢を整えている(大豆島 轟友右衛門蔵)。