鐘鋳堰

682 ~ 686

鐘鋳(かない)堰は、「かんね堰」「かんねん堰」などともよばれ、裾花川から取水し、裾花川扇状地と湯福沢(ゆふくざわ)扇状地の上に重なる浅川扇状地の縁(ふち)にそって水路がみちびかれている。江戸時代における灌漑範囲は、水内郡松代領の妻科(つましな)(妻科)、三輪(みわ)・﨤目(そりめ)(三輪)、桐原(きりはら)・吉田・中越(なかごえ)・下越(しもごえ)(吉田)、北高田・北平林・西和田(古牧)、稲積(いなづみ)(若槻)の一一ヵ村と幕府領の権堂(ごんどう)村(権堂町)、幕府領から越後(新潟県)椎谷(しいや)領になる問御所(といごしょ)村(問御所町)で、水掛け面積は石高で約五千余石であった。

 鐘鋳堰は中世以前に開発され、江戸時代は一三ヵ村の堰組合によって維持管理がおこなわれた。取水口がある妻科村に堰守が置かれ、代々徳竹(とくたけ)家が世襲して任命された。

 鐘鋳堰の第一の課題は取水の問題である。地形や気象など自然の問題と、八幡(はちまん)堰との水争いの問題とが重なる。慶長年間の松平忠輝領時代(一六〇三~一六)に、松代城代花井吉成らによって、裾花川の改修がおこなわれ、白岩(しらいわ)を掘り割って南に流し犀川に接続したと伝えられる。江戸時代には河床が浸食されて低下し堰への取水が困難になった。また、裾花川は急流で水源の山間部に大雨が降るとたちまち増水して氾濫(はんらん)し、取水設備を破壊することがたびたびおきている。

 鐘鋳堰は、渇水期には簗手(やなて)とよばれる長大な施設を築いて裾花川を締めきって取水した。享保七年(一七二二)には、妻科村の堰守から「村々からの人足だけではできないので、善光寺鳶(とび)一〇人を頼み、二〇〇人あまり、御縄手二本、まきろくろ二丁」の応援が願いだされている(『関川千代丸収集文書』 県立歴史館蔵)。ろくろを使って大きな石を引いて据えつけ、そこに三角枠をつなげて石を詰め、さらに石俵を積み、ねこなどをはって水をせきとめた。


図5 鐘鋳堰
 (「文政2年 鐘鋳堰図」霜田厳『鐘鋳堰の話』付図により作成)

 すぐ下流から取水する八幡(はちまん)・山王(さんのう)堰とのあいだでは、はげしい水争いが繰りかえされた。いつ成立した慣行かは分からないが、両者によって時間を区切って水を引く番水制がとられるようになった。鐘鋳堰は、夕六ッ時(日没時)から朝六ッ時(日の出)まで取水して夜間の水を引き、朝六ッ時からは八幡堰が取水して昼間の灌漑をする慣行である。朝六ッ時になると、八幡堰がわが鐘鋳堰の梁手を切りおとし、夕六ッ時に鐘鋳堰組合が梁手を修復して水を湛(たた)えあげて取水した。裾花川の水がとぼしくなる夏場には、梁手の切りおとしと修復が毎日繰りかえされた。

 鐘鋳堰の第二の課題は水路維持である。鐘鋳堰は斜面を横切って等高線沿いにみちびかれる横堰であるため、水の流れはゆるやかで、一部では「上(のぼ)り堰」といわれるほどである。右岸の土手を強固に保つ必要があった。そのうえ、城山などの山地および浅川扇状地からの沢水が押しだし、大水が出るたびに左岸から水路を破壊されることが多かった。盲塚(めくらづか)、湯福沢、堀切沢(ほりきりざわ)、新堰および浅ガラ(浅川水系の三郎堰の末流)や宇木沢(うきさわ)などは、水とともに多量の土砂を押しだして堰に流入した。

 とくに湯福沢の氾濫には悩まされつづけた。湯福沢は、善光寺裏の山地の水を集めて流れくだり、鐘鋳堰を横切る地点で堰を破壊し、大量の土砂を堆積して水路を埋めた。その被害は大きく、そのため、ここに長谷越(馳越)(はせこし)とよばれる立体交差の設備をつくっていた。しかし流出する土砂によって水路が埋められることが多く、その土砂を掘りさらうために多大な労力を要した。あたり一帯が山のようになり、安永三年(一七七四)には、水路の掘りかえ願いが出されている(『市誌』⑬二五四)。また、長谷越は木製の施設のため、年限がたつと腐朽して建て替えなければならず、そのための資材・労力は堰組合村々にとって大きな負担となった(『関川千代丸収集文書』 県立歴史館蔵)。

 枝堰への分水施設である土居(どい)(土用(どよ))は、流入する沢水で増大する流量の調節機能もあわせもった。八幡堰へ水を落とす大土居をはじめ、七ッ釜(ななつがま)土居・松林土居・﨤目(そりめ)土居・桑ノ木土居・五反田土居・四ッ屋土居などがある。七ッ釜土居は居町(いまち)と北条組への分水をし、松林土居は堀切沢・荒堰からの水を北条組方面へ排水し、﨤目土居は宇木沢からの余水(悪水)払いと平林村への分水をしたが、これらの土居は、水路維持と灌漑をめぐって、村々の利害が対立する場所であった。とくに﨤目土居においては、平林村と下流の七ヵ村(﨤目・中越・吉田・下越・桐原・西和田・稲積)とのあいだでたびたび水争いがおきている(図6)。天保十年(一八三九)七月十六日の争いは、堰守などによる堰組合内での解決ができず、松代藩道橋奉行所に訴えだされた。奉行所から和談内済(ないさい)を命じられ、扱い人(あつかいにん)(仲介人)の斡旋によって土居の構造を土俵積みから木製にかえ、三ヵ年の試行をへて、同十三年に和解に達している。新しい土居は、土居の幅四尺七寸の中心に五寸角の溝つきの柱を立てて、溝に厚さ二寸の板を三枚ずつはめこんでいる。上板は常水(じょうすい)、中板は分水(ぶんすい)、下板は悪水払い用である(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。


図6 鐘鋳堰の﨤目土井 土俵で分水してきたが、天保13年(1842)から木製とし、板のすき間から分水する構造に改めた。本堰の底には2本の胴木(5寸角・長2間)を伏せこんでいる

 鐘鋳堰は、善光寺町を通過するため、市街の発展にともなって塵芥(じんかい)の投棄や汚水の流入などの問題が発生し、堰組合から訴えが出されている(『県史』⑦七九〇)。文政四年(一八二一)には、三輪村(三輪)・北高田村北条組(古牧)・下越村(吉田太田)の惣代が、善光寺横町の多兵衛の下男と善光寺岩石町又次郎の下女がごみを捨てたことをとがめて、松代藩役所の添状をもって「大切の御用水差し障り」と、善光寺大勧進代官に苦情をもちこんだ。今後このようなことがあれば科料(とがりょう)(罰金)をとることで和談となった(『県史』⑦一二四四)。そして、善光寺町がわと堰がわが立ちあって、三ヵ所のごみ捨て場をきめている(『県史』⑦一二四五)。鐘鋳堰は流れがゆるやかで、とくに岩石町裏は上り堰といわれるくらいであり、投棄されたごみは川底に沈殿して腐敗し、水の汚染につながりやすかった。

 また、堰端の屋敷地の石垣を堰に張りだして築くために、堰幅が狭くなり通水が悪くなるという問題もあった。享保三年(一七一八)には堰がわが石垣の築き直しを求めたが応じないので、松代藩役所の添状をもって善光寺大勧進に訴えでた。このときは、幕府領役人が仲介して善光寺領役人が責任をもって石垣の築き直しをさせることで解決をみている(箱清水 永井幸江蔵)が、石垣や樹木の問題はたびたび発生した。