八幡・山王堰

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八幡(はちまん)・山王堰は、現在の県庁付近で裾花川から取水し、すぐに山王堰を分流する。八幡堰は南八幡堰と北八幡堰に分かれ、それぞれ多くの枝堰を通して裾花川扇状地の村々を灌漑して千曲川に流入する。山王堰は、漆田(うるしだ)川・計渇(けかち)川・宮川・古川に分かれ、裾花川沿いの水田をうるおす。八幡・山王両堰の灌漑範囲は、裾花川扇状地に開かれた水田の過半におよび、大水路網が形成されている。水路の名称に川とよばれるものが多く、裾花川の古い流路をもとにして開発されたことが推測される。

 平安時代の承平(じょうへい)年間(九三一~九三八)作成の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、水内郡に八ヵ郷が記載されている。そのうち芋井(いもい)郷・芹田(せむた)郷・尾張(おわり)郷・古野(ふるの)郷・大田(おおた)郷は裾花扇状地一帯に位置し、条里水田が開発された。郷の成立および条里水田の開発には、それを支える用水路を欠かすことはできない。八幡堰の原形である裾花川から引水する用水路の開削は、すでに古代に始まったと考えられる。


図7 八幡・山王堰の概念図
(嘉永5年(1852)八幡・山王堰図 長野市博蔵などにより作成)

 平安時代後半には、市村高田荘・太田荘・千田荘・今溝(いまみぞ)荘・東条(ひがしじょう)荘などの荘園が成立し、荘園内の水田の灌漑施設の整備がすすめられた。鎌倉・室町時代にかけて、長沼(長沼)から豊野町周辺にかけて広い地域に成立した太田荘の地頭島津(しまづ)氏によって積極的に水利の開発がすすめられた。八幡堰が、別名島津堰とよばれ、長沼五ヵ村が八幡堰組合の触元(ふれもと)(触頭(ふれがしら))として特別の地位をもっていることは、島津氏による開発を物語るものであろう。また山王堰は、栗田氏によって開発が推進された。さらに戦国時代の武田支配下においても水利施設の改修整備がすすめられたと思われるが、記録・伝承ともに残されていない。

 近世初頭、慶長年間の松平忠輝領時代(一六〇三~一六)に松代城代花井吉成・吉雄父子によって、犀川・裾花川の改修と用水路の大改修がおこなわれたことが伝えられている。史料が残されていないため、改修の具体的内容や規模などは推測の域を出ないが、八幡堰については裾花川から取水して既設の各用水路へ接続する幹線水路の開削が中心であったと思われる。

 江戸時代に八幡・山王堰に関係した村々は「川北(かわきた)三五ヶ村」とよばれる。明和六年(一七六九)大口の普請人足規定に署名した三五ヵ村はつぎのとおりである。長沼上町・栗田町・六地蔵村・内町・津野村(長沼)、富竹村・金箱村(古里)の村々は長沼組合を構成している。栗田村・千田村・荒木村・市村(芹田)、問御所村(鶴賀問御所町)、中御所村(中御所)、妻科村(南長野)の村々は栗田組合を構成している。里村山村・中俣(なかまた)村・布野(ふの)村・小島村(柳原)、石渡(いしわた)村・北堀(きたほり)村・南堀村・北長池村・北尾張部(きたおわりべ)村(朝陽)、南長池村・東和田村・西和田村・西尾張部村・上高田村・下高田村・北高田村(古牧)、風間村(大豆島)、南俣(みなみまた)村・七瀬村(芹田)の村々は簗手取り組合に加わっている。ただし、千田村・中御所村は領主の異なる分け郷がそれぞれに署名している。安永九年(一七八〇)における三五ヵ村の水掛け高の合計は、一万一一三〇石余におよんでいる(金箱 刀根川千尋蔵)。

 大口の取水施設と幹線水路の維持管理は三五ヵ村によっておこなわれ、明和六年の規定はつぎの四項目を確認している。①毎年、苗代荒塊(なわしろあらくれ)の普請はこれまでどおり長沼村から里村山村へ触れが出されたら、きめられた人数の人足をつれて朝四ッ(午前一〇時ごろ)前に大口へ集合する。人足の不参加者は一人銭一〇〇文の過料とする。遅刻も不参と同じ。②人足は壮年の達者なものを出す。年寄・こどもが来ても不参と見なす。人足は出役人の指図どおり精を出して働くこと。不埓(ふらち)な働きかたをしたり暴言を吐いたりしたら不参と同様の過料をとる。③出役人は人足を指図できる確かなものを出す。出役人の不参は過料三〇〇文。④満水で簗手が落ちたり、渇水の場合は村々で相談して人足を出す。このように、普請人足の出し方について、あらためて確認し引き締めをはかったものである。

 この規定書は二通作成して、一本は里村山村に、一本は長沼村に預けることにしている(『市誌』⑬二五〇)。このように、八幡・山王堰全体にかかわることは、長沼村を触元とし、それをうけて里村山村から触れが出される。山王堰関係の栗田組合は、栗田村が触頭であった。八幡・山王堰には特定の堰守は置かれず、堰の運営は、触元が招集する村々寄り合いで運営管理規定をはじめ普請費用・人足数などをきめ、定例の普請などは慣行にしたがって実施された。触元は大口に関する維持管理にかかわり、村用水はそれぞれの堰組合の村々によって運営管理された。

 大口の取水施設として簗手がある。裾花川の水が減水して取水困難になると、触元から人足出動の触れが出され築造される。木材を組んだ牛枠(うしわく)を並べ、石を積みあげて川を締めきる。土俵を積み、石積みの上にねこを張って水をせきとめる。長沼組合と梁手取組合が築く慣例であった。

 大口は裾花川の洪水によって、簗手などの取水施設が流失したり水路が土砂で埋まったりする被害がたびたび発生した。触元から「満水簗手押し払い川口埋没につき御普請人足出役」の廻状が出され、各村から人足が出動して修復がおこなわれた(大宮市 小坂順子蔵)。このほか、鬼無里(きなさ)村など上流の山地から川を流して搬出された(早流(さなが)し)材木や薪などによって大口が破壊されることもあった。嘉永三年(一八五〇)には、大量の材木・薪が流下して簗手が破壊された。久保寺村(安茂里)の惣左衛門ら責任者から詫(わ)び状が出されている(中御所 篠原昭彦蔵・『市誌』⑬二六三)。堰組合は材木の早流しに反対し、警戒をおこたらなかった。

 八幡・山王堰からの枝堰は、それぞれの用水組合の村々によって維持管理がおこなわれた。たとえば、三重待居六ヵ村堰は、西和田村など六ヵ村の用水路として維持管理され、天保十四年(一八四三)には、堰の浚(しゅん)せつや水の融通について、つぎのような取りきめをしている。①天保十一年の相談をもとに、三重待居堰筋の分水口は定木の下二尺掘とする。上沢(うわさわ)・市口(いちぐち)両堰分水口から下は、数ヵ所に敷設した敷木まで掘りつける。中沢堰・洞満(どうまん)堰から土砂が押しだすので油断なく見まわり、一ヵ月に三回は六ヵ村から人足を出して掘りさらうこと。②干ばつで水不足になったら、大堰・上沢堰・市口堰で融通しあい、六ヵ村の役人が相談して極難の場所の救済をはかること(『市誌』⑬二六〇)。

 八幡堰は「御用水八幡堰」として、幹線水路の普請は松代藩の御普請(ごふしん)とされた。松代藩は、材木など普請資材を御林から伐採することを認め、手充(てあて)として出動人足の一部を郡役から差し引く措置をとったが、普請は村が負担する自普請(じぶしん)によっておこなわれた。藩役所によって、普請の実施状況の見回りがおこなわれた。文政十二年(一八二九)には、八幡堰の水路や土手に柳や葭(よし)が生い茂って水の流れが悪く、出水のたびに水田に影響が出ていることが藩役所の耳に入り、西尾張部・北尾張部・北長池(朝陽)、小島(柳原)の四ヵ村が現地を見分した出役からとがめられ、定例の普請をなおざりにしないで実施するむねの請書を出した(北尾張部共有)。以後、四ヵ村は年番を定めてその指図で水路の切り払いを実施した。この請書は「皆出来(かいしんらい)の規定」として年番の村を持ち回りし、普請の基本とされた。