江戸時代、八幡・山王堰では上流の鐘鋳(かない)堰との水争いばかりでなく、堰組合内での分水をめぐって水論が多発した。江戸時代をとおして発生しているが、記録上文化・文政年間(一八〇四~三〇)と天保年間(一八三〇~四四)の発生件数が多い。
水論は日照りなどをきっかけとして発生するが、その背景として、
①開発が進行して堰の灌漑水量をこえるまで水需要が増大したこと。
②開発の差によって配水量と灌漑面積とのバランスが変わったこと。
③二毛作が普及して田植え時期が短期間に集中し、一時に大量の水が必要になったことなどが考えられる。
南八幡堰と北八幡堰との分水について、天保年間の水論をみてみよう。天保八年(一八三七)七月、「長池村ほか八ヵ村が、六月の堰さらいのときに南八幡堰を切りひろげた」と、長沼組合ほか一八ヵ村が抗議し、長池村(朝陽)など南八幡堰がわも「北八幡堰がわが堰幅を広げたので対抗した」と反論し、扱い人による仲裁は難航し、翌九年それぞれの支配役所に訴えでた。松代藩のほか関係する支配役所の立ち会い出役によって、あらためて仲裁が命じられ、四月にようやく和解している。和解の内容は「古くから分水口は間数のきまりはなく、双方が立ちあい実談(じつだん)により分水してきた。南八幡が切りひろげた堰幅は元形にもどし杭木を打って原形に復旧し、絵図面を取りかわす。北八幡は一丈五尺一寸(約四・六メートル)ほど、南八幡は一丈一尺四寸五分(約三・五メートル)ほどとする。堰さらいは先規のとおり双方が立ちあうこと」である(北尾張部区有)。この協定によると、南北の分水の幅については規定がなく、不足する場合は実談で分水することとして、長いあいだの実談による修正を積みかさねて南北の分水堰幅がきまってきたと思われる。
山王堰で、安永二年(一七七三)におきた計渇(けかち)堰と宮川堰の分水問題についてみると、三つの石を据えて分水し、水流の多いほうにころげ石をいれて分水量を調節する方式を分水の基本としてきたが、厳密な分水が求められるようになってから石の据え方がむずかしくなって問題が発生している。
なお、長沼組合の村々は流末に位置するため水量がとぼしく、毎年荒塊(あらくれ)(しろかき)のとき、上流のすべての分水口をとめて融通水をうけることができる特別融通権をもっていた(『長沼村史』)。
このような分水慣行は、水論をとおして改められた。その事例として、まず北八幡堰についてみてみよう。北八幡堰では時間番水と施設分水とが併用されている。流末の富竹(とみたけ)村・金箱(かねばこ)村(古里)では、従来、富竹二日二夜、金箱村一日一夜であったが、延宝(えんぽう)四年(一六七六)に富竹村が白山堰に水を揚げるため下堰に新規の土井板(どいいた)を伏せこんだことから水論となり、扱い人の仲裁で土井板を認めるかわりに、両村一日代わり等分に水を引くことに改めている(『県史』⑦一四六九)。また、宝永二年(一七〇五)の富竹村・富竹新田・金箱村、小島村(柳原)四ヵ村の水論では、下堰の番水は小島一日一夜、富竹・富竹新田一日、金箱一夜とすることが確認された。そのさい富竹・富竹新田・金箱三ヵ村は、用水に不足が生じた場合は不足している水田に水を融通する約束を取りかわしている(『県史』⑦一四七三)。
文化三年(一八〇六)には、村山村・中俣村(柳原)、長沼内町・津野村・長沼上町・栗田町・六地蔵町・分郷(わけごう)津野村(長沼)の七ヵ村と、小島村・富竹村・金箱村の三ヵ村とのあいだで水論が発生した。七ヵ村は「三ヵ村が堰口を深く掘ったため水不足になった。水床を平均にするように命じてほしい」とそれぞれの支配役所に訴えでた。支配役所の出役から扱い人による和解が命じられ、①大土井はもとのとおりとする。②三ヵ村堰口に土井木を据え、水は七分・三分の割合に分ける。③七分・三分になるように分水口の普請のとき、流速を見はからって水盛りをして堰幅をきめる。④夜水は中俣・小島・富竹・金箱の四ヵ村で従来の議定のとおりとする、ということで妥結した(『県史』⑦一四八五)。じっさいに七分・三分に分水することはむずかしく、河原新田村(長沼)の算者松順(しょうじゅん)の力を借りた(大宮市 小坂順子蔵)。
北八幡堰の六ヵ郷堰では、上流の西和田・東和田(古牧)と下流の北尾張部・石渡・南堀・北堀(朝陽)とが対立した。天保八年(一八三七)の干ばつにさいして、下流の四ヵ村から両和田村にたいし刻割番水(こくわりばんすい)の要求が出された。両和田村が「新規のことは受けいれられない」と拒否したため、松代藩道橋奉行所に訴えでた。奉行所は両者に示談を命じたが解決しないので、試しとして用水期間には出役を派遣して現地で分水の指図にあたらせることにした。出役受けいれにあたって六ヵ村では、「出役の宿は六ヶ村回りもちとし、賄料(まかないりょう)は銀一匁とする。しきたり等にかかわらずすべて出役の指図にしたがうこと、問題点については六ヵ村代表が話しあったうえで出役に伺いをたてること、試しであるから不都合があれば何度でも仕法替えして示談すること」、などを取りきめた(北堀区有)。安政三年(一八五六)には、出役が両和田村にたいし「石高刻限割(こくだかこくげんわり)にすれば不公平がなくてよい」と説諭したが、両村は「話し合いで流末にも平等に水がいきわたるように融通しているので、石割(こくわり)は勘弁してほしい」と断わっている(北尾張部区有)。藩役所が直接分水の差配にのりだしたことは注目される。
つぎに、南八幡堰における土井(土居、分水施設)をめぐる争いをみてみよう。柿ノ木(かきのき)土井では、北長池村(朝陽)、上高田村・下高田村・南長池村・西尾張部村・北高田村(古牧)の六ヵ村が対立した。明和九年(一七七二)に「土井築き方定法(つきかたじょうほう)」を取りきめている。それによると、元禄(げんろく)三年(一六九〇)に西尾張部村と下高田村の仲裁による取りきめで分水してきた土井が、年月が経過して不分明になったので、あらためて築き方を定めたとしており、定杭(じょうぐい)を基準にして土井を築き、構造の変動を防ぐために敷石(しきいし)を伏せこむことにしている(『市誌』⑬二五二)。その後、文化十年(一八一三)に折損した土井石を伏せかえるさいに争いが再発し、扱い人による仲裁で文化十三年に試内規(ためしないき)定書をとりきめた。土井石を伏せこみ三高田堰へ新規に式木を二本入れることとし、それぞれの灌漑状況をみた結果、文政元年(一八一八)に分水証文を取りかわした。
その下流の二枚橋(にまいばし)の分水は、北堰の西尾張部・北高田両村と、南堰の南長池・北長池・下高田の三ヵ村とが抗争した。文政四年の争いから、南堰五・五対北堰四・五で試行することになった。一七年経過した天保九年、南堰がわは水不足を訴え「南堰の灌漑石高が六四五石であるのにたいし、北堰の石高は三四五石であるから、石高に比例した分水をしてほしい」と要求した。そこで修正した分水割合で六年間試行し、なお不足するとして試行の一年延長を求めている(西尾張部区有)。
水論の合理的な解決は、灌漑面積とつりあった水量を分水することにある。しかし、施設分水の場合には、流量を測ることの技術的困難があった。堰の幅と深さだけでなく流れの速さも関係する。そのため土井の築き方について試行を繰りかえしている。時間番水の場合には、天保年間から石高に比例した刻割番水の要求が出された。技術面のほか、既得権をゆずらないことなどの事情から水論が発生しつづけた。
解決の方法としては、扱い人による和談内済が多い。扱い人は双方の主張を聞いて実態を把握し、試行期間をもうけるなど双方が納得する妥協案をつくって和解をはかった。水論に関係した村の負担は大きく、文化十年北尾張部村について「寛政年中から長々水論が長引き、多額の出費に難渋している」ことが記録されている(災害史料⑩)。水論は、多くの苦しみをともないながら、かぎられた水量を扇状地に広がる水田全体に配水するという難問を解決する歩みであったといえよう。
水争いを根本的に解決するために犀川から水を引くことが考えられた。文政四年、上駒沢村(古里)の名主吉右衛門は、川北村々の水不足を解消するために犀川引水新堰願いを松代藩出役に提出した。それには、具体的な水路計画まで提案されたが(『市誌』⑬二五八)採用されず、一一〇年余を経過した昭和九年(一九三四)、善光寺平土地改良区の手で実現にいたった。