長野盆地南部の用水堰のうち、千曲川本流から取水する新堰は更級郡の塩崎用水だけである。半過(はんが)岩鼻(上田市)から下流に開削された用水堰は、右岸の埴科郡矢代用水、左岸の更級郡六ヶ郷用水・若宮用水で、開発が古く、規模が大きい。塩崎用水は、塩崎村・塩崎村篠野井組(篠ノ井)の後背湿地をうるおすために開削された。塩崎村の山麓(さんろく)と聖川(ひじりかわ)の扇状地は溜池(ためいけ)と沢水を利用して灌漑がおこなわれていたが水量がとぼしく、新たな開田ができない状況だった。両村は、山麓と千曲川沿岸の自然堤防の畑地が多く、延享(えんきょう)二年(一七四五)と推定される史料によれば、田方が七一九石、畑方が一四六六石であった(『塩崎村史』)。
明暦(めいれき)二年(一六五六)、杭瀬下(くいせけ)・新田両村地内(更埴市)から揚水する「塩崎篠野井村用水」が開削された。堰口が五尺で、野高場(更埴市稲荷山)付近で揚水し、堰筋は稲荷山の西堀から長谷(はせ)(篠ノ井塩崎)へと開かれたようである。揚水の制限がきびしく、馬草籠(まぐさかご)で川の両岸を堰(せ)き、水不足となっても聖牛(ひじりうし)・大石を使うことができなかった(篠ノ井塩崎 片山貴蔵)。明暦の用水堰は、享保十三年(一七二八)九月の千曲川大洪水で流失したまま復旧できないで終わった。
塩崎村は、従来の灌漑用水系統にもどった状態がつづいたが、寛政六年(一七九四)十一月、塩崎村越(こし)・長谷両組が用水新堰の開削願いを提出した。千曲川左岸の志川(しがわ)村(更埴市)地内で揚水し、古堰に落とす計画であった。この計画は、志川村ほかの反対があって認められなかった。開削願いは、寛政九年以降も数回出したが、志川村・稲荷山村のほか村内でも反対が根づよかった。反対の理由は、揚水施設をもうけることによる出水時の川欠(かわかけ)、あるいは川除(かわよけ)人夫の入用で、とくに稲荷山村は用水堰ができると背後の山沢押しだしによる水吐けができなくなるので承諾できなかった。村内では、開削費用と維持管理費がかさむ用水堰よりも、築造費がかからない溜池築造を望んでいた。文化三年(一八〇六)には越・長谷両組だけでなく、同村四之宮(しのみや)の嘉平次が一人で出願する動きがあらわれた。しかし、文化七年二月には、「小前銘々に糾(ただ)したところ、同心のものが村方の半数にいたらない」ということで、これまでの文書・絵図が差しもどされた(『塩崎村史』)。
文化十二年になると村内の賛成者が増加し、文政五年(一八二二)には村内の態勢が整った。これは、もちろん越・長谷両組の小前の熱意が原動力である。小前は再願にあたって三〇〇両を差しだし、村内各組を説得している。また、明暦の古堰の堰筋は千曲川寄りに開かれ、山麓寄りの区域は灌漑ができなかったが、志川から塩崎村境の湯の崎(更埴市)をへて越組に出る新しい堰筋ならば、畑田直しなど開発できることも有利に働いたのではないかと考えられている(同前書)。
塩崎用水の開削工事は文政七年三月に着手し、同九年四月に竣工(しゅんこう)した。堰延長は四三二〇間(約七八六メートル)、費用は一〇三六両一分余であった。「長谷郷用水凡積(およそつもり)覚」(県立歴史館蔵)によれば取水口から志川沢までに水門を三ヵ所、一之水門の左右に五〇間囲い土堤を構築した。また、小川二ヵ所の水通し籠、一〇間の掛け樋設置など、志川村からの導水に多くの労力をさいている。志川沢は厚さ二寸の松板で底樋(そこひ)を渡し、下流の稲荷山村分の四八七間を開削した。
用水の開削後、篠野井組は費用の高割り負担および諸人料について、用水堰を利用しないことを理由に異論を出し、天保七年まで用水入料を特免された。用水堰開削による畑田直しは、天保十一年(一八四〇)に二一九石、六万三三〇〇坪余(約二一ヘクタール)となり、塩崎村・同村篠野井組の水田が増加した。