聖川の水利用

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更級郡の聖川は江戸時代には氷沢(ひざわ)とよばれ(以下、聖川と記す)、聖山を水源として聖沢(ひじりさわ)(大岡村)をへて小田原(こだわら)村・田野口(たのくち)村・赤田(あかだ)村(信更町)を流れて川中島平に出る。平地に広がる石川村・二ッ柳(ふたつやなぎ)村・塩崎村(篠ノ井)の水田をうるおして千曲川にそそいでいる。

 流域の田野口村には大塚(おおつか)古墳があり、石川村には川柳将軍塚(せんりゅうしょうぐんづか)古墳および石川条里(じょうり)水田遺構が残り、一帯は古く古代から開発された地域である。戦国時代川中島の戦のあと、上杉景勝(かげかつ)領有のあいだに、東流していた聖川の流路を南流するように改修されたと伝えられているが、その詳細は不明である。


写真6 聖川の水利用 聖川沿いに開かれた田野口村の水田風景

 山間部上流の小田原村では老野入(おいのいり)・中上(なかがみ)・楢尾(ならお)の用水を引き、中流部の田野口村では八蔵(はちんぞう)・四草(よつくさ)横堰・横堰・柳田せんげ・宮ノ下堰などの水路を引き、七沖(ななおき)総代によって水管理をおこなった。赤田村では山田堰を引いて灌漑した。

 平坦(へいたん)部の石川村・二ッ柳村と塩崎村は、聖川の谷の出口付近にそれぞれ取水口をもうけて水を引いた。左岸からは石川・二ッ柳村が上堰・川原田堰・向堰に水を取りいれた。上堰(小山田用水)はもっとも上流部から取水し、水路を山ぎわに沿って高所にみちびき、そこから中堰・寺田堰(堀割堰)・前河原田堰などの枝堰が引かれ、末流は二ッ柳村の鴨川堰に入っている。右岸からは塩崎村が取水した。

 聖川の分水割合は、慶長十一年(一六〇六)松代城代花井吉成の指図で石川・二ッ柳村は四分の三、塩崎村は四分の一と定められたという(『塩崎村史』)。聖川は夏季には流量が少ないため、渇水期には石川・二ッ柳二村と塩崎村とのあいだではげしい水争いが発生した。元和三年(一六一七)の大干ばつの水争いでは、塩崎村の一人が打ち殺され、犠牲者の埋めあわせのため五分ずつの分水に変更したという。

 水不足を解消するため溜池が築造された。元和九年、石川・二ッ柳村は小山田(こやまだ)堤を築き、渇水期にはその水を聖川に落として小山田堰に取りいれて使用した(篠ノ井二ッ柳 春日季美蔵)。塩崎村でも、延宝八年(一六八〇)に猪ノ平(いのたいら)堤、元禄八年(一六九五)に、河越(かぐち)堤を築いて冬水を貯え、夏の補給水とした。さらに文政年間には千曲川から塩崎用水を開削して水利の改善をはかった。