神田川・関屋川・藤沢川の水利用

700 ~ 702

埴科郡の神田(かんだ)川は高遠山(たかとおやま)を水源として、西条(にしじょう)村(松代町)をくだって松代城下を通り、東寺尾村(同)をへて柴村(同)で千曲川に流入している。西条村では、山ノ神堰・入堰・上ケ沢堰・鹿島堰・山橋堰などによって約三五町歩の水田を灌漑するとともに、飲用水としても利用された。中流の松代城下町では、武家屋敷や町家の泉水や生活用水としても大事な水であった。

 関屋(せきや)川(現蛭川、以下、関屋川と記す)は保基谷(ほきや)岳を水源として、多くの渓流を合わせて関屋村(松代町)から流れだし、桑根井(くわねい)村・平林村・西条村(同)をへて、松代城下の東がわを通って東寺尾村で藤沢川と合流して(蛭川)、柴村で千曲川に流入している。江戸時代この川の水は関屋村など流域の村々の田用水・飲用水として利用された。西条村では欠(かけ)組の用水として、宮前堰・久保堰が引かれている。城下の水道の水源ともなった。

 藤沢川は、東立石山(たていし)の谷間から流れだし、牧内村(松代町)を流れくだり、乙女(おとめ)沢・宮川を合わせて加賀井(かがい)村(同)・田中村(同)をへて、東寺尾村で関屋川と合流して柴村で千曲川にそそいでいる。瀬関(せぜき)南で分水して瀬関・般若寺(はんにゃじ)・大町(だいまち)(同)などの水田をうるおし、宮川に合流して藤沢川にもどっている。宮川からは宮川堰が引かれ、岩沢・北川・内田(同)などの田用水となっている。また、皆神山(みなかみやま)の北麓(ほくろく)には湧水が多く、なかでも松井(まつい)泉を源とする大日(だいにち)池から引かれた大日堰は数条に分かれて、東屋地(ひがしやち)・中屋地・諏訪田・鍬崎(くわさき)・町田・柳田・長礼(ながれ)(松代町)などの田用水・飲用水として利用された。


図9 神田川・関屋川・藤沢川の水利用図
(大正2年陸地測量部「長野」より作図)

 これら三つの河川は、堆積活動がさかんで、中流部は天井川となっている。常時は水量が少なく、夏季にはほとんど流水がみられないほどになるが、降雨があると土砂をはこんで氾濫(はんらん)する。両岸の堤防をかさあげして、水があふれでるのを防いだ。下流部は自然堤防にはばまれて水が湛水(たんすい)しやすく、増水した千曲川の水が逆流して後背湿地にある水田は遊水池と化した。水害を防ぎながら水利用をはかることが課題であり、安政五年(一八五八)から万延(まんえん)元年(一八六〇)にかけて、加賀井村出身の藩士高野真遜(しんそん)(広馬)の尽力によって、細田・大熊・中ノ町・藤沢(松代町)の四耕地を囲む大熊堤防(おおくまていぼう)が築かれた。

 また、神田川・関屋川は松代城下町の水として利用されており、田用水としての利用は町の水利用によって制約された。寛政十一年(一七九九)には、西条・欠・関屋・平林・牧内・荒町・宮崎新田・東荒町にたいして、「これらの村地内に出る水は、御城下第一の用水源である。ところが近年水田を開発してその水を引くので、干ばつのときはもちろん、夏は城下に水が届かなくなりたいへん不埒(ふらち)である。これからは水田の開発は禁止する」ことが申しわたされている(災害史料⑥)。

 文政八年(一八二五)、西条村では水田用水が不足したので「同心町上用水の夜中拝借」および「馬場町上堤水の夜中拝借」を水道方に願いでた。そして「干ばつにつき十八日ごろまで村方へ樋口をすべて解放」を許された(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。清野村でも、年次不詳であるが「神田川枯渇につき御泉水を七日より十二日まで拝借」を願いでて、水の融通をうけている(同前)。