保科川・赤野田川の水利用

702 ~ 704

保基谷(ほきや)岳から流れだした高井郡の保科川は、谷の出口からやや急な勾配(こうばい)をもつ扇状地を形成し、赤野田(あかんた)川の扇状地がそれに重なる。扇状地と千曲川の自然堤防とのあいだの後背湿地には、弥生時代の水田や古代の条里水田が開かれ、中世には保科御厨(みくりや)・長田(ながた)御厨が置かれ、古くから保科川・赤野田川の水を利用して開発がすすめられてきた。

 江戸時代には、保科村・小出村・東川田村・町川田村・綿内村(若穂)が両河川を利用した。保科村・小出村・綿内村は、保科川からの引水によって灌漑したが、扇端部の大門・塚本・下和田(同)、および千曲川沖積地の町川田の水田は、赤野田川の水のほか湧出(ゆうしゅつ)する伏流水を利用して灌漑した。

 保科川の水をめぐって、江戸時代保科村と綿内村とのあいだで、たびたび水論が発生している。保科村は松代領、綿内村は須坂領に属したため、争いは幕府の評定所にもちだされて裁許された。

 水論の記録は慶長のころから残されている。慶長八年(一六〇三)のものとされる文書には「綿内村の水田は、前から保科川の水を引いてきたが、ことし水をかけさせないといって綿内の百姓が訴えてきた。たとえ保科川の水かさがなくても、これまでどおり三日に一日一夜ずつ水を通すように」と記されている(保科 高井穂神社蔵)。すでに慶長以前に、保科村に二昼夜、綿内村に一昼夜という番水制がおこなわれており、それをめぐって争いがおきているのである。

 明暦元年(一六五五)には、高岡川の合流点より下流の下堰関係の番水が取りきめられた。下堰では、保科村一日一夜、綿内村二日二夜となった(『長野県上高井誌』歴史編)。これによって保科川全体について配水割合が定められ、上堰では保科村の取水割合が多く、下堰では綿内村が多くなっている。

 貞享(じょうきょう)二年(一六八五)に「保科村違約」として綿内村から訴えが出された。訴状には「綿内の番水なので取水にいったところ、保科村ではほら貝を吹き鐘を鳴らしておおぜいかりあつめて警備しており、堰口を払うことができず、やむなく引きかえした」と記され(綿内 宮沢綾子蔵、『県史』⑧六七〇)、両村の対峙(たいじ)のようすがうかがわれる。

 翌貞享三年にくだされた幕府の裁許状で、明暦年間の取りきめが確認された。この裁許状が以後の基本となった(保科 峯村利治蔵、『県史』⑧六七二)。上ハ(うわ)堰は、保科村が二日二夜取水し、綿内村が一日一夜取水する。下タ(した)堰は保科村に一日一夜、綿内村に二日二夜水を引く、という番水が確定した。ただし、同年綿内村三役人から出された誓書には「大日照りの節は、新田に水かけまじく」と記され(『松代真田家文書』国立史料館蔵)、新田の灌漑は制約されている。ここにいう上ハ堰は、一ノ口板倉(いたくら)堰・二ノ口引沢(ひきざわ)堰・三ノ口越後(えちご)沢・四ノ口上ミ(かみ)堰をさし、下タ堰は蓮花(れんげ)沢・高岡(たかおか)沢・明置(みょうち)(尻掛(しりかけ)堰)の三ヵ所である。

 さらに、文化十一年(一八一四)にも争いが再発し、三年にわたる争論の結果、同十三年にくだされた幕府の裁許は、貞享の裁許を踏襲している(綿内 宮沢綾子蔵)。


図10 保科川・赤野田川の水利用図
(大正2年陸地測量部「長野」「須坂」より作図)

 このように争いが繰りかえされる原因として、急傾斜の扇状地に開かれた保科村の水田条件と、綿内村の大きい水需要があるが、両村の支配が異なったことが背景にあると考えられる。

 綿内村は「綿内三千石」といわれる大村で、広い水田の灌漑用水を確保するため、いろいろな手だてを講じている。そのひとつは、溜池の築造である。正保(しょうほう)三年(一六四六)に小出村の瀬之脇(せのわき)に借地して堤を築き、保科川から取りいれた水を貯えて渇水にそなえた。寛文六年(一六六六)に、池の敷地について代替地の交換を取りきめている(『県史』⑧五九六)。また、赤野田川からも取水をしている。東川田村から借地して堰を掘り、保科川を樋で越して綿内村にみちびいた。宝暦十年(一七六〇)の両川田村あての堰敷借地証文によれば、引水は「寛永三年(一六二六)以来」と記されている(『県史』⑧六七三)。さらに、千曲川沿いに開発した水田には、牛島村(若穂)から借地して千曲川から取水する堰を引いた。嘉永六年(一八五三)には用水揚げ口を強化する川普請をし、その普請にたいして大豆島村から抗議をうけ、綿内村役人は「二百十日後には元形(もとがた)にして返す」という誓書を出している(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。