浅河原懸かり拾ヵ村用水

705 ~ 708

水内郡の浅川は、飯縄(いいづな)山地を水源とする荒川で、江戸時代は「浅河原(あさがら)」とよばれた。南北浅川が合流して谷あいから平地に出て、そこに広がる浅川扇状地に開かれた水田を灌漑する。浅川からは、上流から順に、太郎堰・二郎堰・三郎堰・四郎堰・五郎堰と名づけられた水路が引かれている。現在の各堰の取水口は、薬師山(やくしやま)下の合流点から宇木(うき)橋までのあいだに集中しているが、江戸末期、嘉永五年(一八五二)作成の絵図では、上流から間隔をおいて順次取水されている。この五堰のほかにも、多くの水路が各村に引かれている。

 開発は中世以前からおこなわれ、江戸時代には松代領の上松村・上宇木村・下宇木村・押鐘(おしがね)村(三輪)、吉田村(吉田)、東条村(浅川)、檀田(まゆみだ)村・山田村・徳間村・稲積(いなづみ)村(若槻)の一〇ヵ村が浅河原懸かり拾ヵ村という井組をつくって利用した。一〇ヵ村は、水利用について組内各村の利害を調整し、対外的には水利権を主張拡大して、隣接する幕府領西条村(浅川)などの水利用を排除するうえで強い力を発揮した。

 浅川の流量は渇水期にはとぼしくなるため、たびたび干ばつの被害をうけ、松代領内における干損の多発地帯であった。「勘定所元〆日記」によれば、明和元年(一七六四)稲積・吉田・押鐘・下宇木・上松・北山田・上宇木の七ヵ村では、ひどい干損のため減免を願いでて、江戸・松代への御飯米九五駄一俵について免除を認められている。また明和五年には稲積村が「近年打ちつづく干損ゆえ困窮におよび人馬等抱えかね」宿役をつとめることができず、手当の増加を願いでて認められている。安永二年(一七七三)にも北山田村・稲積村が干損難渋村として郡役の減免と手充(てあて)をうけている(災害史料①)。

 夏季における灌漑水量の不足にそなえて、上流の飯縄山地に溜池を築造した。それぞれの堤(池)の築造年代はつぎのとおりである。大池は、永禄六年(一五六三)、武田氏の勢力下にあった時代、海津城にいた高坂弾正(こうさかだんじょう)の家臣小林宇右衛門が普請奉行となって築いたという。丸池も永禄十年の築造と伝えられる。その後、北郷(きたごう)村(浅川)から谷地(やち)(湿地)を借地して、明暦二年(一六五六)に上蓑ヶ谷地(かみみのがやち)堤、貞享三年(一六八六)に蓑ヶ谷地堤を築造した。蓑ヶ谷地堤は、松代藩道橋奉行山中小平次や郡奉行児玉九郎右衛門の監督をうけ、北郷村の原山半左衛門が所持する高一石六斗あまりの畑を借地して築き、借地料は籾(もみ)五俵であった。

 さらに延宝二年(一六七四)、大座法師(だいざほうし)堤を永借地し、宝暦九年(一七五九)論電ヶ谷地(ろんでんがやち)堤を築いている。大座法師池は巨人伝説に由来して「だいじゃぼっち堤」とか「大羅法師堤」などとよばれ、松代領葛山(かつらやま)七ヵ村の上ヶ屋(あげや)・広瀬・桜・泉平・鑪(たたら)・入山(いりやま)・茂菅(もすげ)(芋井)の用水であったが、一〇ヵ村が借りうけたものである。水源として、にごり沢の冬水を七ヵ村から借りて貯水した。五年前の寛文九年(一六六九)北郷村から、おうが谷の冬水を半分借りて大座法師堤に入れ、池水の利用を始めている(上松水利組合蔵)。


図11 浅川の水利用

 論電ヶ谷地堤は、葛山七ヵ村の入会草山に築いたもので、松代藩役所に願いでて七ヵ村から借地した。草山年貢籾一三俵のうち、三俵は藩が七ヵ村から差しひき、一〇俵は一〇ヵ村から上ヶ屋村に納めた。水源は、北ノ大沢の水および論電ヶ谷地からの湧水に限定し、堤近くのにごり沢水は「七ヶ村専一」の用水として引水しないという条件であった。貯水量が不足しがちのため、宝永六年(一七〇九)には、上ヶ屋・広瀬・桜・泉平四ヵ村から冬水を半分借りる借水証文を取りかわしている(同前蔵)。なお、堤をのちに池と称するようになると、論電ヶ谷地堤を論電ヶ谷池、蓑ヶ谷地堤を蓑ヶ谷池などとよぶように変わる。

 堤の土堤が崩壊して、下流に大被害をおよぼすこともあった。丸池堤は、慶長十六年(一六一一)に堤が決壊して一時放棄され、元禄五年(一六九二)修復されたが、享保(きょうほう)二年(一七一七)にまたも破壊して被害が出ている。同十七年に北郷村が修復して年貢一石で一〇ヵ村に貸池していたが、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の台風襲来で決壊し、下流の耕地に被害をあたえた(同前蔵)。論電ヶ谷地堤も、築堤後まもなく決壊したり漏水したりして数年で中絶し、文化年間(一八〇四~一八)に場所をかえて再築造されたが、安定した利用ができなかった。

 そのほか、元禄六年丸池の樋(ひの)がぬけずやむなく土手を切ったため洪水となり、北郷村の田畑が被害をうけ、一〇ヵ村では詫(わ)びを入れて、以後も同様の事態が生じたときの弁済を約定した(同前蔵)。

 堤(池)の維持管理には最大限の努力が払われ、地元の北郷村や上ヶ屋村が松代藩から堤(池)守を命じられた。堤守は、ふだんから堤を見まわって漏水や土手の異常の有無を監視し、大水のときは堤の決壊を防ぐため余水吐けをし、秋から冬は水を溜(た)め、渇水期には樋を操作して水を供給する仕事が任務であった。また、堤の普請計画や現場での指図など責務は重大であった。大池の堤守は北郷村が命じられ、元文(げんぶん)三年(一七三八)、同村堤守の治左衛門に松代藩が手当てとして郡役一人分をあたえている。大座法師堤について宝暦三年、里郷一〇ヵ村から藩役所につぎのような願いが出されている。「堤に水を引くかけ込み堰は戸隠街道沿いにあるため、往来のものや山人などが流れに手をつけるので水の溜まりぐあいが悪い。また夏中長雨や夕立のときなど、堤への水量を管理できにくい。そこで地元の上ヶ屋村に堤守を命じてほしい」。上ヶ屋村では、一〇ヵ村から役料として籾六俵を受けとることで、堤守を引きうけている(同前蔵)。