浅河原の水をめぐる村と村

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とぼしい水を分けあうことから、水論がたびたび発生した。安政六年(一八五九)の訴状には「大きな普請によって溜池をいくつも築いているにもかかわらず、少し日照りがつづくと用水不足になり、場所によって干損して難渋し、組合内で田に水をかけるところでおりおり争論となり、なかには上様に御苦悩をおかけすることも、まま発生している」と記されている。

 以下、浅河原の水争いについて、①水源地域における水の確保の問題、②一〇ヵ村と組合外の村との水利権の争い、③組合内の分水の争いの三つに分けてみていこう。

 まず、上流の水源地域における水を確保する争いをみてみよう。明和二年(一七六五)、西条村(浅川)が、飯縄山麓の柳沢・うなぎ沢・瀧ノ沢の水を駒沢川にみちびこうとして飯縄原の牛街道下に長さ一二〇間(約二一八メートル)の水路を掘った。しかし、その水は一〇ヵ村組合の水源であるため反対され、中絶した(『浅川村郷土誌』)。

 安政六年、北郷村の門沢(かどさわ)組が、大座法師堤・論電ヶ谷地堤の水を引いて新田開発をしたことが問題になった。この水路は、弘化四年(一八四七)の善光寺地震で井戸水が絶水した門沢組の依頼をうけて、一〇ヵ村が飲用にかぎって使用を認めて新設した堰であり、新田への灌漑用としては認めていなかった。一〇ヵ村の訴えで、松代藩道橋奉行所の役人が現地に出役して調査し、道橋奉行所・郡(こおり)奉行所が吟味をするとともに和解を命じた。その結果、門沢組が開発した新田をつぶすこと、飲用水の分水口に二寸角の石樋口を設置することで内済した。この争論において門沢組が「灌漑に使用しているのは地元の出水である」と主張したのにたいして、一〇ヵ村は「北郷村地内から出る水は、残らず一〇ヵ村の用水である」と主張した(上松水利組合蔵)。浅川に流れる水はすべて一〇ヵ村の水利権のもとにあるとして、上流の新田開発を否定したのである。門沢組では、寛政七年(一七九五)および文政年間(一八一八~三〇)にも、開発した新田を一〇ヵ村の抗議で畑地とせざるをえなかった。

 つぎに、一〇ヵ村組合の北東条村と組合外の幕府領西条村(浅川)との争いをみてみよう。安永七年(一七七八)、西条村が太郎堰から分水する「新堰」を掘ったことをとがめて、北東条村が代官竹垣庄藏の川浦役所(新潟県中頸城(なかくびき)郡三和村)に差しとめを求め、「西条村水田は往古より駒沢川の水によって灌漑しており、太郎堰からの引水は認められない」と主張した。これにたいし、西条村は「在来の堰の定例の春普請であり、新規の堰ではない。北東条村が深く掘ったため西条村の水路に水があがらないので深く掘っただけだ」と反論した。

 争論は幕府の寺社奉行所にあげられ、新規か在来かが吟味された。いっぽうで和解調停もすすめられ、扱い人に命じられた牟礼(むれ)宿(牟礼村)五郎右衛門、松代領妻科村後町組(西後町)六左衛門によって同八年三月内済にいたった。一四〇間におよぶ新堰は残らずつぶす。太郎堰ぞいの西条村水田八反六畝余には「今までどおり」分水するという内容で、一〇ヵ村の主張が認められた。争いは文久二年(一八六二)にも発生して明治二年(一八六九)までつづいた。そのなかで西条村は、一〇ヵ村が西条村・徳間稲倉(とくまいなくら)村への水は「恩水」であるとして、権利としての分水を認めないことに抗議している(『浅川村郷土誌』)。このようにして一〇ヵ村は流域全体におよぶ水利権を確立した。

 西条村との争いがたびたび発生して紛糾する主因は、浅川の水量不足であるが、西条村の新田開発による水需要の増大にも起因した。西条村は坂中(さかなか)新田、台ガ窪(だいがくぼ)新田、福岡(ふくおか)新田などの開発がすすみ、安永八年の新田検地では、西条東組・西組で高二石九斗九升、坂中・台ガ窪新田で高七石六斗二合、徳間稲倉組で高四斗七升五合が増加し、面積で三町三反九畝が増加して、水需要も増加している(同前書)。さらに、松代領と幕府領とに支配領域が分かれたため、排他的・対立的な気風が生じて争いが激化したことが考えられる。

 三つめに、一〇ヵ村組合内の分水問題をみてみよう。組合内でもはげしい水争いが発生している。文久元年八月、干ばつがつづくなかで一の口(太郎堰)の分水をめぐって、東条村・徳間村と他の八ヵ村とのあいだで争いが発生した。東条村がわは、早拍子木(はやひょうしぎ)を打ち鳴らして動員をかけ、鳶口(とびくち)・火事鎌(かま)・六尺棒などをもちだしてときの声をあげ、八ヵ村も小前のものが騒立(さわだ)ち、上松村の地蔵久保に五〇〇人が集結してにらみあう事態となった。石を投げあう乱闘で怪我人が出、さらに鉄砲をもちだして撃つなど、村役人の制止も聞かないほどであった(上松水利組合蔵)。

 分水は、上流から順に二つ割りにしていく慣行であったが、灌漑面積に比例した合理的分水、つまり高割りによる分水を求める下流の堰にたいし太郎堰が優越権をゆずらないため、太郎堰の分水問題はたびたび発生した。さらに、村内で小前の勢力が増大してきたことがある。村役人の調停をのりこえ、おおぜいを動員して実力で解決しようとして争いが激化する傾向がみられた。