善光寺平の西部山間地は山中(さんちゅう)とよばれ、傾斜地に開かれた畑作が中心であるが、水の得られるところではかなり水田も開発されている。山中でも更級郡田野口村(信更町)のように、聖(ひじり)川沿いに広がる平地の水田に水路を引いて灌漑(かんがい)している村もあるが、多くは小さな谷間に小渓流を利用して開かれた水田や、湧水(ゆうすい)を利用した水田や、雨水にたよる天水田(てんすいでん)である。
犀川に面してかなり急な傾斜地に位置する水内郡岩草村・倉並村・五十平(いかだいら)村・古間村・坪根村・瀬脇(せわき)村(七二会)などの村々は、保玉沢・泥沢・除沢などの渓流や湧水を田用水としている。天保二年(一八三一)の瀬脇村の「田植時候書上帳」には菅沼堰・倉並堰・古間村堰・後田堰・保玉堰・除沢堰などの堰のほか、「出水(泉)(いずみ)かかり」や「開発場新堰」が記載されている。沢水を引く堰のほか、湧水の利用も多く、新堰をたてて開発をすすめていたことが知られる。しかし沢水には限りがあるため、既存の水利権をおかす開発は制約される。安政四年(一八五七)坪根村は、倉並村が新堰をつくることにたいして、自村の水田に差し障りがあると反対している(『七二会村史』)。
傾斜地では、地質的関係で地滑り・地崩れがおこりやすく、水路が崩れたり埋没したりして普請が欠かせない。宝暦五年(一七五五)、岩草村は、念仏寺村(中条村)境の千原沢の用水路に石が抜けおちて通水が悪くなった場所の普請を共同でおこなうむねの請書(うけしょ)を検地役人に提出している。寛政三年(一七九一)、橋詰村・五十平村は「両村組合用水堰が年々抜覆(ぬけおお)いで堰形(せぎがた)が埋まる」ので、普請をするとの請書を道橋奉行所に出している(同前書)。水路の維持管理が並みたいていではなかったことがうかがえる。
長野市域は内陸型気候で、長野盆地の平坦部の年平均降水量は現在九三八ミリメートルと、全国的にも有数の寡雨(かう)地域であり、江戸時代においても同様であったと思われる。盆地周辺の山間部では冬季の積雪もあって年間一二〇〇~一五〇〇ミリメートルの降水量があるが、稲の成育期間の雨量は不足しがちである。なかでも山中の水田は水源がとぼしいため、日照りの被害をうけやすい。
江戸時代には毎年のように干ばつによる被害が発生している。松代藩の「勘定所元〆日記」から例を拾うと、安永六年(一七七七)には「六月から八月上旬まで干ばつで、田方のうち池水ならびに谷川がかり用水の分は水が絶え、稲作は立ち枯れとなった」。また天明四年(一七八四)には、「山方の池水がかり出水かかりの分は水絶え、稲穂が出ない」などと記されている。寛政五年(一七九三)には、「干損の被害状況は領内で差があり、川北・川中島のうち千曲川・犀川水かかりの水田は平年を上まわる作柄で、水田つづきの田木綿なども作柄は良好である。しかし、浅河原がかり、山岸通り・山中筋はもちろん、谷川・池水・天水かかりの水田はいずれも格段の干損で、畑作は近年まれな干損」と記されている(災害史料②・③・⑤)。これらの記述によっても、山中筋の小渓流かかり水田と、溜池かかり水田および天水田がつねに干損におびやかされていることが知られる。
寛政四年の日照りのとき、五十平村では線香番水によって水を分けあっている。「二〇俵取り水田は線香四本分、六俵取り水田は一本二分」などと、線香の燃える時間の配水をおこない、その水管理の当番は灌漑面積に応じて割りあてている(『七二会村史』)。
山中の水田には、かぎられた水を有効に使う水づかいがみられる。わずかばかり地中から水がしみだしてくる土地を掘って平らにして水田を造成する。その水田のうち掘った部分と、土をもちだした部分との境目に畦(あぜ)をつくる。掘った部分には水がまわるのでその収穫を確保し、水が行きわたりにくい部分については、降雨に恵まれない場合は収穫をあきらめる覚悟の作付けである。また、年中水田に水を湛(たた)えておくこともおこなわれた。湿田の作業は困難で収量も少ないが、かぎられた年間水量を有効に使う一つの方法であろうか。
雪解け水で田植えをし、梅雨の雨で稲を育てる天水田では、冬の積雪が少なかった年は、融雪水や地中に貯えられる水量が少ないため、梅雨時の降雨が少ないことが重なると用水不足から干損におちいる。出穂(しゅっすい)期までもちこたえることができれば収穫が見こまれるので、それまでの灌漑用水を補給するために溜池が掘られた。沢水を利用して谷間に開かれた水田でも事情は同じで、水源が細いため日照りがつづくと流れが絶えてしまう。水不足を補うため、谷の奥に小さな溜池が築造されている。