溜池による灌漑

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安永六年(一七七七)、水内郡北上野(きたうわの)村(若槻)は、松代藩の郡奉行・道橋奉行に願いでて、字塔尾の谷間に溜池をつくった。池の保水の状況を試したところ良好で、干損つづきを解決し近年の大干害をもまぬかれる効果があがったことを報告し、享和(きょうわ)元年(一八〇一)から三年間の池下地(いけしたじ)の免税を認められた(災害史料⑦)。

 このようにして干損を克服するために、大小の溜池が築造された。昭和五十四年(一九七九)現在の長野市域における受益二戸以上の溜池は三二九である(「溜池施設台帳」)。そのうち、明治期以降に築造された一五一をのぞいた一七七の分布は、表1のとおりである。高野村・氷熊(ひぐま)村・山平林村・小田原(こだわら)村(信更町)、山布施(やまふせ)村・有旅(うたび)村(篠ノ井)に集中して分布している。山地でも、七二会(なにあい)地区にはほとんど分布していない。湧水が豊富なことと地滑りが起きやすい地質的なことが理由と思われる。


表1 長野市域の溜池数

 大きさ別にみると、貯水量一〇〇〇立方メートル未満の小規模溜池が多いことが目立ち、八三パーセントを占めている。なかには、貯水量一〇〇立方メートル未満で、灌漑面積一反歩程度のごく小さな池もあり(一四パーセント)、統計にあらわれない個人持ちの池をふくめると、その数は無数である。天水田や谷川かかり水田の補助用水として築造されたものである。

 溜池の築造・補修の経過などについて残された記録は少ない。記録の範囲で特徴的なことをみてみよう。

 浅川上流の飯縄山麓には、すでに戦国時代から大池・丸池が築造され、江戸時代になって大座法師(だいざほうし)堤・蓑ヶ谷地(みのがやち)堤・論電ヶ谷地(ろんでんがやち)堤などが増築された(四項「浅河原懸かり拾ヵ村用水」の項参照)。

 更級郡の小山田(こやまだ)堤は、元和九年(一六三二)、石川村・二ッ柳村(篠ノ井)が松代藩に出願して、赤田村(信更町)の小山田地籍に藤塚清水を水源として築造した。石川・二ッ柳・赤田三ヵ村で管理運営した。池面積は当初は一町歩程度であったが、宝永七年(一七一〇)、享保元年(一七一六)、文政二年(一八一九)と改修して四町歩余に拡大し貯水量を増やした。そのあいだ、正保(しょうほう)二年(一六四五)、正徳(しょうとく)五年(一七一五)、寛延(かんえん)元年(一七四八)に土手の修復や樋の建て替え普請をしている(二ッ柳 春日季美蔵)。塩崎村でも、延宝七年(一六七九)に村の西方の山中に猪平(いのたいら)堤を築き、元禄年間には聖川近くに河越(かぐち)堤を築造して水利の改善をはかった。

 堤は築造後、土手や樋を修復する普請が欠かせない。たえず見まわって貯水状況や漏水や土手の崩壊、流入土砂の堆積、木製の樋の朽腐など、異状の発見につとめる必要があった。

 寛延四年、水内郡北東条村(若槻)など一〇ヵ村は、「一〇ヵ村用水の北郷大池の払堰立貫(たちぬ)きと、蓑ヶ谷池・丸池の土手が破損して普請が必要である。役人を派遣して見分して御普請を命じてほしい」と願いでている(『市誌』⑬二四八)。御普請が認められている堤の普請には、幕府や藩から費用が支出された。出願から完成まではつぎの手順でおこなわれた。村から見分を願いでて認可をうけ、村の目論見(もくろみ)帳を勘定役所が査定して仕様(しよう)帳を作成する。その仕様に沿って普請をおこない、竣工(しゅんこう)後出来形(できがた)帳(完成報告書)を提出して見分をうけ、費用が下付された。

 安永三年(一七七四)北東条村など一〇ヵ村は、蓑ヶ谷池上の堤の土手普請をした。普請は請負でおこなわれ、完工後村役人と池守が立ちあって仕様どおりか検査のうえ請負業者から受けとり、出来形帳を道橋奉行所に提出した。普請内容は、敷(しき)(土手の下底)八間、馬踏(ばふみ)(上底)二間半、高さ二間の土手を長さ七二間にわたり修復することで、①土手の内がわ二間どおりの古土手を掘りとって捨て、真土を埋め立て築(つ)き固め、②土手の表がわ二間どおり腹付(はらづけ)、③敷四間・馬踏二間・高さ五尺の上置きがおこなわれた(北郷 松木厳蔵)。

 天明八年(一七八八)、幕府領の水内郡下駒沢村(古里)は、浅川沿いの堤の樋替えと土手の普請をしている。提出した出来形帳によると、吐樋(排出口)は縦樋二間と埋樋二〇間で、八寸角で長さ二間一尺の栗木を二つ割りにして四寸角にえぐってから皆折釘で接合して木管とし、それを一〇本つないで土手一六間を掘り割って伏せかえ、入樋(取水口)は長さ四間を伏せかえた。そのほか、土手切所三ヵ所について、馬踏六尺・敷四間・高さ二間半の土手を延長四八間にわたって修復している。普請にかかった費用・労力のうち、栗木・雑木・釘・鎹(かすがい)などの資材費と大工・木挽(こびき)の賃金など金一〇両永三三文七分と、人足一八二九人の扶持米一三石七斗一升七合五勺は、幕府入用から支出された。下駒沢村は、村役(村が負担する労役や資材)として人足三六一人八分と明俵一〇〇〇俵、縄三三三房三分、麁朶(そだ)一二〇束を負担した(『市誌』⑬二五五)。

 また、堤の貯水量を確保し増大する普請もおこなわれた。天保二年(一八三一)、更級郡境新田村(信更町)は、隣の氷熊村(同)の鹿ノ入(かのいり)堤(写真7)から秋の彼岸から八十八夜の一〇日前までの冬水を借りて村の宮浦堤に貯えることを企てた。松代藩役所の役人のあと押しによって氷熊村の了承を得て、仁左衛門堰とよばれる隧道(ずいどう)を掘削して、水量ゆたかな鹿ノ入堤の水を導水し、堤の貯水量増加に成功している(信更町 内山宏蔵)。


写真7 鹿ノ入堤