用水堰流末の悪水払い

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用水堰の末流地域は、水利慣行上いくつかの不利益をうけている。なかでも上流優位の原則は、苗代水から始まる水利用時期や水量に大きな制約をもたらした。とくに渇水時には流末で水がまわらないこともあり、施設分水や時間番水には用水堰によるちがいがみられる。

 更級郡犀口三堰のうち上堰は、枝堰への分水を規定の樋(ひの)でおこなう。田植え時期は、上流の犀口(篠ノ井小松原)が今の暦で七月四、五日で順次下流におよび、末流の御幣川(おんべがわ)村(篠ノ井)の田植えは、七月十日から十七日になった。御幣川の上流部の布施五明村(篠ノ井)までは田植え時期に水が届くが、末流部は田植え水が不足するため、御幣川村からは規定の樋留め人夫を出し、午後七時ころから翌朝六時ころまで上流の樋を留めることができた。また、ひどい水不足のときは、水利組合に届けでて上流村から「融通水」をもらえるときもあった。

 高井郡綿内村(若穂)の春山・田中・古屋組は田用水がとぼしく、保科川の水利用で保科村(同)と争論となった。貞享(じょうきょう)三年(一六八六)、幕府裁許により、上(うわ)堰は保科村が二日二夜、綿内村一日一夜、下(しも)堰は保科村が一日一夜、綿内村が二日二夜の番水と定められた(四項「保科川・赤野田川の水利用」の項参照)。この番水は、昭和三年(一九二八)に千曲川からの電気揚水施設ができたのちもつづけられ、「堰検(せぎあらため)」がおこなわれている。

 流末は、灌漑(かんがい)用水が不足となるいっぽう悪水(灌漑後の落ち水、余水)が集まり、湛水(たんすい)による作物の生育障害が生じた。悪水は不要の水とみられるが、この水を利用するにはむずかしい問題があった。

 犀口三堰のうち、中堰の悪水は下(しも)堰に落ちていた。中堰組合村の下堰に近い水田は下堰から水を引いていたが、中堰の悪水を下堰が利用しているので「交換水」だとして、下堰普請費用の負担を軽くしたため下堰組合と争論となったすえ(切夫銭問題)、明和六年(一七六九)に和談となった。しかし、悪水を「交換水」と認めない下堰組合との確執がつづき、この概念を不問としたまま、区域変更によって和解が成立したのは明治二十三年(一八九〇)である。

 文化二年(一八〇五)、更級郡松岡新田村(大豆島)は、四ヵ村堰の樋の口の上に土井木を入れ、捨て水を払い堰へ引きおとした。このため、下流の水内郡風間村・更級郡大豆島村(大豆島)は灌漑用水が不足したので争論となった。和談の結果、松岡新田村が土井木を取りのぞき、「向後は払い堰間地井(まちい)は、出水の節は格別、用水の捨て水」にならないようにする取りきめがなされた(大豆島共有)。なお、大豆島村とその枝村松岡新田は更級郡に属していたが、犀川の流路が変わって川の北に立地している。

 文政元年(一八一八)には、水内郡千田村地内高島沖の四ヵ村堰悪水払い堰が洪水で押しきられた。この復旧がすすまなかったため、千田村では古堰敷を掘りざらいしたところ松岡新田村・大豆島村から故障が出され、これを引き払うことになった。文政八年、松岡新田村は、先年の犀川変地のために悪水払い堰川幅が荒地となったので、新田川合村分地の窪地に払い堰を掘り割り通水する計画をたてた。村は、払い堰の荒地を開発する予定だったが、大豆島村から故障が出された。窪地に払い堰を掘り割ると、犀川が満水のとき悪水が押しこみ、逆水となるおそれがあるというものであった。松岡新田村は、逆水がおこらないようにするため、①堰敷を六尺とし、年々三月下旬に掘りさらう。②掘り回しの堰筋幅を二間にし、堰尻(せぎじり)の土堤(どて)に水門を建て逆水を防ぐ、とした。しかし、問題が残り、文政十二年には元の堰形(せぎがた)へ立ちもどり、千田村三ッ塚から下続き六六間を堰組合が掘りざらい、それより土堤まで六六間は松岡新田村がおこなうことになった。土堤外の干あがった払い堰は、堰組合で掘りたてることになった(『千田連絡会文書』長野市博寄託)。

 川中島平の西部を流れる岡田川は、常水がとぼしいため灌漑用水には利用されないが、大雨が降るといっきょに増水して大量の土砂を押し流して氾濫する。西の山地から流れだす沢水の増水をあわせて、上(かみ)堰や石川方面からの悪水も流入した。また、岡田川末流部は、千曲川の増水による逆水の危険もあった。このため、流域の更級郡瀬原田村・布施五明村・二ッ柳村・御幣川村・塩崎村篠ノ井組(篠ノ井)にとってそれらの排水は大きな課題であった。

 五ヵ村は、いつごろからか不明であるが共同で排水路(古堰)を掘り割り排水していたが、元禄十七年(宝永元年、一七〇四)三月、四ヵ村は古来からの悪水払い堰の水吐けが悪くなったので新払い堰を掘る一札を塩崎村篠ノ井組とかわした。古来の払い堰は、篠ノ井村と横田村の境を掘り割り最短距離で落とした堰で、千曲川への落ち口が高くなっていた。そこで、横田村(篠ノ井)と御幣川村・会(あい)村(同)境の長い払い堰(大仏堰)を掘りあげ、湛水を解消しようとしたものである(『上中堰沿革史』)。ところが、大払堰の落ち尻(じり)が湛水し、千曲川の洪水で欠け所ができたので堤防構築および水門の修築をし、天保七年には五ヵ村が規定を取りかわすなど、千曲川の逆水を防がなければならなかった(二ッ柳共有)。


写真8 悪水払い古堰 悪水払い堰として篠ノ井村(組)・上横田村境を掘り割った古堰は岡田川末流となっている
(昭和60年撮影)