牛島村(若穂)は、犀川が千曲川に合流する付近の微高地に立地し、その東部には保科川と赤野田川が流れる。古くは更級郡に属し近世でもそうであったが、寛永初年の「松代封内(ほうない)図」では千曲川の右岸に記される。犀川は、慶長十二年(一六〇七)の大洪水のさい川合村を分断し、従来の流路を南方へ変えたと伝えられるように、両河川合流近辺の村々は村の存亡に直面していたと思われる。このようななかで人びとがどのように河川と向きあい、隣村との争論を解決しようとしたかを、牛島村の事例でみてみよう。
牛島村は、正保(しょうほう)四年(一六四七)の「信濃国郷村帳」によれば六八五石二斗余の村である。村の南部は町川田村(若穂)と接し、関崎の亀岩(かめいわ)から下流に形成された中州上に集落と畑地が、赤野田川流域の狭い低地に水田が開かれた。明治八年(一八七五)税地調べの水田面積は九町七反九畝二歩、畑が四三町四反八畝二〇歩の畑作地であった。村の北部で赤野田川と保科川が千曲川に流入し、綿内村(若穂)の土屋坊(どやぼう)・万年島両組と接していた。
千曲川・犀川は、元禄十四年(一七〇一)以降、数回の大洪水をおこしたが、牛島村の被害状況は不明である。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月の千曲川大洪水(戌(いぬ)の満水)で、村は家屋二二軒が流失し、つぶれ屋が五〇軒、流死人が二六人の被害をうけた。このとき保科川も暴水し、保科村(若穂)の五一軒が流失する被害をうけているので、牛島村は水中に孤立したと思われる(『松代満水の記』)。千曲川は、この洪水で上村・中村と下村のあいだに川筋が変わった。洪水のたびに川筋が変わり、川欠(かわかけ)や起き返りが生じるので、人びとは災害復旧のほか隣村との境改め、水防にしのぎをけずった。
宝暦六年(一七五六)二月、「綿内村境取替セ(とりかわせ)牛島村ト綿内村河原境之覚」(『輪中の村 牛島区誌』)によると、両村の千曲川・犀川河原の境がわからなくなったので、菱(ひし)川(保科川)筋では清水山大沢から城山(場所不明)を見通し、三居柳(場所不明)筋は保科村若宮森から伺去(しゃり)(浅川)の岩を見通して境を定めた。同年の町川田・綿内・大豆島・川合新田・川合五ヵ村と牛島村との境改め図には寺社・家屋のほか川筋、芝原・砂原が記されている(『牛島区有』長野市博寄託)。
千曲川は天明三年(一七八三)七月にも大洪水となり、牛島村は住民が四散し、三、四十軒となったという。この洪水で地形が変わり、天明五年には大豆島村と地境争論がおこった。しかし、大豆島村と綿内村が村境規定を定めなかったため裁許されず争論がつづき、寛政十二年(一八〇〇)に裁許がくだされた。享和元年(一八〇一)十二月、ようやく詳細な境改め絵図がつくられ、千曲川・犀川による荒所にいたるまで境が定められた。当時は方位や距離を正確にはかる技術があったが、絵図には見通しのきく定点が示され、多くの人びとが伝承し確認できるくふうをしている。平地からみる定点としての善光寺如来堂はまれな例で、大部分は窪寺(くぼでら)村(安茂里)鞍掛(くらかけ)岩、綿内村(若穂)十九ケ鼻(つずがはな)などの岩石、吉窪村(小田切)城山、妙徳山高峰、西条山白砂利上大沢筋などわかりやすい目標が選ばれた(同前文書)。
いっぽう水防もすすみ、寛保二年~明和二年(一七六五)に古御普請堤が上牛島・下牛島に構築された。下牛島の上堤は、千曲川河岸だけでなく、上流の亀岩付近からの氾濫(はんらん)や赤野田川の増水に備えた村囲い堤防も構築されている。その後も護岸水制普請がおこなわれたが、弘化四年(一八四七)の犀川大洪水で一三軒が流失した。物置の流失は数知れず、泥土が村中に二尺余堆積した。慶応元年(一八六五)五月の千曲川・犀川大洪水では上牛島が壊滅的な被害をうけた。牛島村役人は、御代官所へ「上牛島は居家(おりや)が半つぶれ、物置は大破し、穀物・農具などおおかた流失した。耕地には石砂が入り川筋となり、亡所同様となった。住むところもなく救助を訴えてきたが大前のものも水難で救う手立てがないので、仙助など六人を難渋人別へ加えていただきたい」と嘆願した(牛島区有)。慶応四年には、上牛島の七軒が千曲川の東がわに移転している。
水害を防ぐには、対岸や村の上・下流の川除(かわよけ)普請をできるだけ抑えなければならない。西岸の大豆島村、綿内村土屋坊組と東岸の牛島村、綿内村では、互いに故障(差し障り申し立て)して反対しあっている。文政七年(一八二四)二月に示談となった綿内村本郷と土屋坊組は双方とも川除普請を認めなかったが、つぎのように定めた。①万年島組は川瀬が東へ寄り本田にあたるが普請は見合わせる。住居が危ないときは願いでて御普請をする。ただし刎出(はねだ)しは川西耕地に差しつかえないようにする。②牛島境から福島村境の御普請は、仕来(しきた)りどおりで差しつかえない。③芦ノ町西御普請は古形も新規も、川瀬締め切りあるいは掘割り刎出しは水の流れに差しつかえないよう、検分のうえ下知しだい御普請する。④土屋坊組は高請けの耕地が川欠のときは御普請を願いでて村役人が立ちあい、故障の村方がないように御普請をする(『綿内区有』長野市博寄託)。
牛島村は、対岸の土屋坊組の堤防が補強されると自村が危なくなるので注意をおこたらなかった。土屋坊組の新規土堤を取りはらうよう故障したがそのまま存続したため、文久元年(一八六一)には綿内村が牛島村から借地している浦新田の用水取水口付近の堤防普請を規制している。浦新田の堤防は、連年杭枠(くいわく)、岩詰め普請していたため大豆島村が故障していた。牛島村としても、下流の堤防が補強されるのは好ましくなく、とくに土屋坊堤防と同じ三尺の上置きをすると牛島へ浸水するので二尺の上置きを主張し、これを認めさせた。綿内村は、「これまでの有形(ありがた)を元にして岸囲いをし、新規の土堤普請はおこなわない。もし約定にそむいたら綿内村分の二尺高仕継普請を引きはらう」との一札を牛島村に出した(綿内区有)。
牛島村など川辺の村々では、水防と開発は裏腹の関係にあった。牛島村では、松代藩が河岸や荒地に柳さしをさせ、草地には鎌を入れさせない場所もつくった。耕地の少ない川辺の村々は、川原の起き返りの開発をしたので、柳立て地の開発願いがおこなわれた。牛島村では、いつごろからかは不明であるが川原の起き返りの開発を本田大高持ち二二軒がおこなっていた。安永五年(一七七六)四月、牛島村小前総百姓五〇人余が向河原新田を「総新田高割(たかわり)」とする願いを出した。この結果は不明であるが、文化五年(一八〇八)には向河原の小前「面割(つらわり)新田」が川欠となった。同八年に小前は北河原新田の起き返りを総面割りとするよう村役元へ願いでたが実現しなかった(牛島区有)。
文化年間以降、千曲川・犀川の洪水が多くなり、起き返り開発がさかんになっている。この開発には松代藩あるいは村内の規制がはたらいた。文化十二年、牛島村は川田村と荒神窪(こうじんくぼ)の柳立て地に桑を植える取りきめをした。このときは水防を優先させ、柳立て地と桑立て地を区分し、桑も切らないことにした。文久三年(一八六三)にいたって川並みがよくなったので、牛島村は同地の開発のため川田村に借地を申しいれている。いっぽう、大高持ち二二軒も小前の開発を抑えることがむずかしくなり、割地(わりち)規定を定めて開発秩序を保とうとした。天保三年(一八三二)閏(うるう)十一月に牛島村から郡奉行所に出した規定証文(牛島区有)によると、新田および柳・草野立て地のうち六分二厘五毛(六二・五パーセント)が本田高持ち分割り、三分七厘五毛が総面割りとなった。この割地には小前総代が立ちあい、生活が難渋しても譲渡あるいは分散させないようにして共有地を確保した。牛島村には、赤野田川から引く草間堰と千曲川の荒神窪で取水する二堰があった。しかし、水田面積が少ないため、人びとは水防と川原開発秩序の維持をはかったのである(同前)。