江戸時代の林野利用

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林野は私たちの暮らしに多くの恵みをあたえている。江戸時代では、森林資源は薪(たきぎ)や炭など日常の燃料として利用され、成木になると土木建築の用材や木工品の原料になっている。藤つるや芝は水防施設を構築するのに欠かせなかった。草や木の葉は家畜の飼料や田畑の肥料として刈られた。漆(うるし)の実からは蝋(ろう)を製し、樹液は漆器(しっき)産業を支えていた。わらび・ぜんまい・たらの芽などの山菜や茸(きのこ)・竹の子・木の実は食生活を補い、豊かにするものであった。さらに、飢饉(ききん)のときにはくずや山芋・わらびなどの根を掘りとり、食料として命をつないだ。山の岩石は切りだして石垣や石積み・敷石に用いるほか、神社の玉垣(たまがき)・石灯籠(いしどうろう)などの石造物の材料になった。粘土は焼き物や溜池(ためいけ)の築堤(ちくてい)に不可欠なものとして大量に掘りだされた。金・銀・銅・鉄などの鉱物資源も採掘されて利用されてきた。山野はまた水源涵養(かんよう)の場であり、治水のうえでも大きな役割をになってきた。

 神聖な場所として信仰の対象となった戸隠(とがくし)山や飯縄(いいづな)山などは、修行の場ともなった。そこでは日照りのときに雨乞(あまご)いの神事もおこなわれたりした。

 近世初期の検地は小百姓の自立をうながし、年貢が村請制(むらうけせい)になる。これにより、村共同体の意識も高まってくる。多くの肥料をほどこし、鍬(くわ)で耕す集約的農法は、多量の刈敷(かりしき)や秣(まぐさ)を必要とした。これらを刈る林野について村どうしの争いがおこってくる。領主は百姓の共同利用の林野(入会山(いりあいやま))から山年貢を徴収するが、これは百姓の慣習であった入会山利用を領主が認めることになった。また、山検地により百姓は林野所持を容認された。近世中期以降に自立してきた百姓は、土地所持の願いを入会山に求める。刈敷などの利用の減少とあいまって、入会山の割山(わりやま)が実施されていった。

 江戸時代における山の利用で特徴的なこととして、つぎの六つがあげられる。

(1) 村境として山野の境界が中期にはほぼ明確化されたこと。

 江戸時代までは漠然と稜線や川筋などを村境にしてきた。林野利用がさかんになると、林野をめぐって利害が衝突することが多くなった。村落や耕地については、初期の検地によって村切りがおこなわれて明確に境界が定められた。しかし、林野の境界についてはかならずしも確定されなかったので、各地に境界をめぐる争いが発生した。大きなものに飯縄山論がある。この山論は、幕府の裁定で寛文(かんぶん)(一六六一~七三)・明和(一七六四~七二)・天保(てんぽう)(一八三〇~四四)年間の三度も境界を定めたが、最終的に確定したのは昭和年代になってからである。

(2) 林野は御林(おはやし)・百姓持林(ひゃくしょうもちばやし)・入会山という利用の仕方で、所持の形態が定まったこと。

 御林は幕府や藩が専有して利用し、百姓は許可を得た範囲で利用した。松代藩の記録では、幕末の嘉永五年(一八五二)に御林を二五ヵ所設定していた。このほかにも水内郡上野(うわの)村(若槻(わかつき))などに小規模の御林があった。善光寺(ぜんこうじ)領では、旭(あさひ)山・大峰(おおみね)山は「如来(にょらい)の山」として百姓の自由な利用を禁止していた。このような寺社専有林は御林と同じ性質の林野と考えられる。百姓持林は百姓が個別に利用していた林野である。更級郡の「田野口(たのくち)村(信更町)山水帳(やまみずちょう)」(『県史』⑦八六四)や塩崎村(篠ノ井)明細帳では、江戸時代初期から有力百姓が林野を所持していたことがわかる。また、中期以降は入会山を割山して百姓持林が多くなってくる。田野口村山水帳には松代藩士二人の所持林野も載せられており、これを地頭林(じとうばやし)とよんだ。しかし、この時代の林野の大部分は入会山であった。

(3) 入会山には村中(むらじゅう)入会と村々(むらむら)入会があり、入会山利用の規定をもうけて利用されていたこと。

 村中入会は林野を一つの村の百姓全員が利用する入会であり、村々入会は複数の村が利用する入会である。村々入会では山札(やまふだ)をもって入山する札山入会ともたない入会があった。松代藩では藩が山札を発行し、山入りのさい山札を点検する役人も藩が任命していた。入会規定は、利用方法・禁止事項について定めているものが多い。入会地を所持する山元(やまもと)村と利用する入会村とが、入会地利用について争うことがあり、大きいものとして三登(みと)山・元取(もとどり)山山論などがある。

(4) 林野は刈敷肥料として利用がすすみ、立木を立てない草山・芝山・野山が多くあったこと。

 江戸時代になると耕地が増加し、それに見合った肥料としての刈敷が多量に用いられた。この刈敷の山が草山・芝山・野山である。木を立てられたり、開墾されたりすると刈敷を採取する場所が減少し、作物の収穫にも影響をあたえるので、このための争いもおこってくる。寛文年間に水内郡の里方五八ヵ村が、霊仙寺(れいせんじ)・飯縄山麓の新田二二ヵ所と新林一九ヵ所を原野にもどしてほしいと訴えた。しかし、幕府の裁許で里方の村の願いは否認された。享保十五年(一七三〇)の更級郡岡田村明細帳には、家数一八七軒で「薪代(たきぎだい)・田畑のこやし代に籾(もみ)三二〇俵と金二四両」を支出していると記している。宝暦十三年(一七六三)の塩崎村明細帳には、田畑のこやしとして山の草以外の「油粕(あぶらかす)・籾ぬか・米ぬか」も書きあげている。このように江戸中期以降になると、田畑のこやしには刈敷ばかりでなく油粕などの金肥(きんぴ)も利用するようになってきた。

(5) 山の産物が年貢となり、また商品化されて都市へ薪炭・木材などが供給されたこと。

 江戸時代初期には、山の産物である漆・刈干(かりぼし)・垣そだ・門松(かどまつ)などが、加役(かやく)(役儀(やくぎ))として現物納(げんぶつのう)させられていた。これらは代金納にかわっていき、さらに、百姓の要求によりしだいに廃止されていった。都市の発達は多くの木材を必要とした。天然林だけでは木材が不足してきたため、植林も実施されるようになってきた。善光寺町市場の主な商品の一つに薪があり、戸隠山など山付きの百姓が売りだしていた。高井郡保科村(若穂)などでは藩御用炭を焼き炭の商品化もおこなわれ、水内郡鬼無里(きなさ)村(鬼無里村)には幕末に炭竈(すみがま)が約三〇〇竈もあった。

(6) 藩や幕府による植林が江戸中期に始まり、後期には村々で百姓の植林も幕末にはおこなわれたこと。

 松代藩では御林の植林をすすめていた。上平(うわだいら)御林(坂城町)の例では、安永六年(一七七七)から七六年間に、杉・さわら・ひのき・唐松(からまつ)を約四万七〇〇〇本も植えつけさせている。飯山藩では御林奉行をもうけて樹木の育成をはかっていた。元治(げんじ)二年(一八六五)に飯山領の吉(よし)村・田子(たこ)村(若槻)では、それぞれ杉苗六〇〇本と三〇〇本を植えて、御林奉行に検分を願いでている。幕府領でも明和年間(一七六四~七二)から村々に苗木を渡して植林をおこなわせた。水内郡瀬戸川(せとがわ)村(小川村)では、弘化四年(一八四七)に百姓一人ひとりが不時に備えて植林する申しあわせをしている。苗木は漆と杉で、五年間に各自の資力に応じて一〇本~三一〇本までを植えることにしていた。

 これから、入会山と御林を中心にとりあげていきたい。