慶長年間の林野の確定

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近世にいたるまでは、林野は百姓の共同利用の場として慣習的に利用されてきた。近世の幕藩領主は、この慣習を踏まえつつも、領主御林を設定し、百姓林野にたいして山年貢を定めるなど、改編掌握をすすめる。

 近世初期の御林の実態は判明しないが、百姓林野にたいする年貢賦課のようすは、更級・埴科・水内・高井四郡の草山年貢帳で知ることができる。慶長五年(一六〇〇)二月に、家康から北信四郡をあたえられて入封(にゅうほう)した森忠政は、同七年を中心に領内総検地を施行したのとあわせて、四郡の草山年貢高を定めた。森は同八年二月、美作津山(みまさかつやま)(岡山県津山市)へ移封し、かわって下総佐倉(しもうささくら)(千葉県佐倉市)から松平忠輝が四郡に入封する。忠輝を補佐した大久保長安(ながやす)らは、森時代の「先帳」に新たに「改め出し」を加えて年貢高を引きあげ、同九年九月四郡草山年貢帳にまとめて、石高で示される年貢高を確定した。それとともに、山元村の肝煎(きもいり)を年貢納入責任者とした。

 この草山年貢帳の帳末には、忠輝の城代をつとめた重臣四人の地方知行(じかたちぎょう)の覚えがあり、この知行高には草山年貢高も記されている。田畑の場合には、石高にたいして収穫実態に応じた割合で年貢高を定めるが、草山年貢の石高は年貢賦課高そのものであろう。のちの近世の林野年貢は、山年貢・山手(やまて)・野手(のて)などとよんで銭で取りたてる形が多いが、森検地とこれをうけつぐ忠輝の段階では年貢高を石高表示している。じっさいに納める山年貢が、米(籾)納であったか、その代銭納であったかはわからない。

 表2は、四郡草山年貢高のうち市域の村々を郡別にのせたものである。いずれの村も山付きの村で、自村の草山年貢高である。しかし、水内郡長沼村(長沼)は「むれ山下」となっており、同郡牟礼(むれ)村(牟礼村)へ入山して利用する年貢高である。また、更級郡丹波島(たんばじま)村(更北丹波島)は年貢納入責任者が高井郡大室(おおむろ)村(松代町)と似ているので、大室山の利用と思われる。草山年貢高は村高とは別に知行高に加えられているので、村高にふくまれない。


表2 慶長9年(1604)市域村々の草山年貢高

 村ごとに慶長七年の村高にたいする草山年貢高の割合をくらべてみよう。四郡では千曲川東の埴科・高井両郡の草山年貢高が、川西の更級・水内両郡より高い。高井郡保科(ほしな)村(若穂)の草山年貢高は村高と比較しても四・五パーセントと高い。ほかに川東には四パーセント以上の村が二ヵ村、三パーセント台が四ヵ村あり、一パーセント以下は一ヵ村だけである。これにたいして更級・水内両郡では、小田原(こだわら)村(信更町)は村高二四・六石余の小村なのに、草山年貢高一四石と村高の五六・四パーセントにもなる。水内郡長沼村が五・一パーセント、三パーセント台の村が二ヵ村で、一パーセント以下の村が一五ヵ村である。このように更級・水内両郡は、草山年貢高が村高にくらべて高い村も若干あるものの、全体としては低い。埴科・高井両郡は草山年貢高も高く、村高にくらべても高いことがわかる。

 草山年貢帳の草山と札山の設定状況をみると、表2で更級・水内両郡に札山がなく、埴科・高井両郡にはもうけられている。近世中期以降にみられる林野利用では、埴科・高井両郡では広く山札による村々入会がおこなわれている。更級郡の平坦(へいたん)部の村々は、埴科・高井両郡の山に札で入会(いりあ)っているが、更級郡内の山付き村への山札による入会はごく一部にすぎない。水内郡では善光寺領内と飯縄山へ二ヵ村が札で入会っていることが確認できるだけである。林野利用形態は前代からの慣習を制度化したものと推定されるが、近世林野利用に影響をおよぼしているのである。

 そうすると、札山の草山年貢高は札山入会の年貢高とも考えられる。埴科郡東条村・平林村(松代町)肝煎惣助(きもいりそうすけ)は自村の札山責任者であるばかりでなく、同郡田中・桑根井(くわねい)・関屋・牧内(まきうち)・加賀井・欠(かけ)・寺尾(同)の七ヵ村に名をのせている。松代藩では、寛文九年(一六六九)に山札の村々入会で各入り口にあたる村人一〇人を、山札見に任じている(『日本林制史資料』松代藩編)。この地域の山札見は関屋村二人、牧内・東条村各一人である。このことから、惣助もこの地域の札山入会を管理していたと考えられる。

 また、草山の年貢納入者に田野口村(信更町)では、肝煎と惣百姓を記している。この村には元禄九年(一六九六)の「田野口村山水帳」がある。検地帳には地字(ちあざ)・山年貢高(籾)・名請人(なうけにん)を記すが、一部に面積や芝野(原)・林・小木立など林野の様相も記載する。林野の個人所持は「山年貢寄」で三〇人、一人が他村、連名が三組で三二人となる。山年貢合計は四四俵一合である。このほか藩士二人分・無年貢分二〇筆・役人山一筆である。無年貢分は寺分一筆、一二筆が個人分、七筆が村中持ちである。この検地帳の特色としてつぎのことがあげられる。①名請人に二~三人の連名がある。②藩士・他村百姓が多くの筆数を所持している。③肝煎作左衛門・長百姓(おとなびゃくしょう)新兵衛のような村役人の所持の筆数が多い、などである(表3・4)。


表3 元禄9年(1696)田野口村の林野所持


表4 元禄9年田野口村の松代藩士と村役人の林野所持

 この山水帳より一〇年のち、宝永三年(一七〇六)塩崎村明細帳(『上田藩村明細帳』)では、塩崎村の林野利用は表5・6のようになっている。百姓持林は五ヵ所、この百姓の延べ人数は五一人である。この年の百姓は三〇五軒なので、約二五〇軒は村中持ちの林野しか利用できないことになる。このため他村へ入会って、薪・刈敷・秣などを確保していたのである。同村入会山の田野口村戸口(とぐち)山は、山水帳では名請人が藩士柳島佐野右衛門で山年貢高二俵二斗七升三合である。藩士の山年貢は田野口村で取りまとめていないので、塩崎村では山年貢を藩もしくは藩士に直接納めたのであろう。


表5 宝永3年(1706)塩崎村山年貢上納の林と芝山


表6 宝永3年塩崎村入会山の概要

 また、同じく同村権田(ごんだ)山は山年貢高三俵三斗五升で、名請人は更級郡桑原(くわばら)村(更埴市)平之丞と塩崎村弥惣右衛門である。平之丞関係はすべて田野口村肝煎作左衛門と連名で名寄せされているから、権田山の山年貢もそのうちに加えられている。名寄せ人が山年貢納入者とすると、肝煎作左衛門が入会山の年貢納入者となる。これは慶長年間に肝煎が山年貢納入者と定められたためではないか。田野口村の林野所持は、元禄九年以前に慣習的に定まっていたのを山検地によって確認されたものと考えられる。草山年貢高の草山は、このような個人所持と村中入会の年貢高でなかったかと思われる。

 元禄九年より約九〇年後の天明六年(一七八六)と寛政五年(一七九三)の田野口村山年貢は、元禄九年と同じ四四俵一合である。表3と7で山年貢所持をくらべると、①所持者が約二倍になっていること、②山年貢高の少ない百姓が増加していることがわかる。これは小百姓が自立し、百姓持林も細分化されていったことを示すものであろう。


表7 天明6年(1786)・寛政5年(1793)田野口村の百姓持林(山籾年貢高)と石高所持