村民の林野利用の変化

735 ~ 741

入会林野には用途別でみると、草山・薪山(燃料・建築材など)・萱(かや)山があった。草山は農業をするのに必要な場所であるから大いに利用された。田植え前には刈敷を水田に踏みこみ、夏草は秣や畑の肥やしとし、秋草は刈り干しや焼き灰に利用した。薪山は自家用の薪に用い、また農間稼ぎとして薪を売りだした。萱山では屋根葺(ふ)きや炭俵の萱を刈りとっていた。

 高井郡保科村山入会は札山入会である。この山に入会っている村々が、山札一枚に萱一駄(だ)(周囲三尺の束が六把(わ))を山元の保科村清水(せいすい)寺に寛保三年(一七四三)から五回納めた記録がある(表11参照)。これをもとに試算してみると、一回平均五五〇駄の萱を約二四年ごとに屋根の葺き替えに使用したことになる。清水寺は当時大伽藍(だいがらん)を構えていたからであろうが、百姓家でも二五年から三〇年ごとぐらいには屋根の葺き替えをし、相当の萱を使っていた。

 前記のように、入会には入会山を一村だけが入会利用する村中入会と、複数の村が利用する村々入会があった。それぞれの入会では、必要な刈敷や萱などを勝手に利用しないように約束を取りきめていた。

 入会取りきめの例を、村中入会である鑪(たたら)村(芋井(いもい))でみてみよう。まず貞享(じょうきょう)五年(一六八八)の入会山郷中(ごうちゅう)規定はつぎのとおりである。①鍬(くわ)(頭部の先だけ鉄)・唐鍬(とうぐわ)(頭部がすべて鉄)を使って薪の木を掘りとらない。②村の林で草木を盗みとらない。③萱野で草を盗みとらない。④草野で九月以前は刈り干し用の草を刈りとらない。⑤入会山に木を育てない。⑥田畑境の木は日陰にならないように枝を切る。⑦他人の畦畔(けいはん)の草刈りをしない、などであった。そして、これに違反したときには銭五〇〇文の過料をとり、これにしたがわないときには鍋(なべ)・鍬を質にとる。違反が重なると藩へ申しあげ、郷中掃(ごうちゅうばら)い(村追放)に処することにしている(『市誌』⑬二四五)。

 鑪村は、自村の薪・草・萱・木材の需要の増加とあいまって、農間稼(のうまかせ)ぎにも入会山を利用していた。長年のうちにはこの規定が守られずに、草山の荒れがめだってきた。そこで、明和八年(一七七一)四月にふたたび「草山定之事」(鑪共有)を村中できめている。それはつぎの六項目である。①田畑の畦畔は持ち分のみの草を刈りとる。②田畑の境に新林を育てない。③田畑の作物の生育に差し障りになる場所に木を植えない。ただし立木がある場合は枝を切りとる。④入会山の春草は半夏生(はんげしょう)(太陽暦七月二日ごろ)以後、刈りとらない。⑤入会山の刈り干しは秋彼岸より刈る。⑥作物を盗みとらない。これを破ったときは、罰金として木や草関係の違反は銭三〇〇文、作物はなす一つ盗みとっても銭一貫文と取りきめている。

 両者のきまりを比較すると、明和では項目が少なくなり、春草の刈りとり日を定めたほかは、作物に重点が移っている。罰金でも作物の違反は、草木の三倍以上の金額である。作物の盗みを見のがしたときは罰金を銭一貫文とり、訴えでたものに罰金の半分をあたえる。村役人へ届けなければ藩へ訴訟するなど、たいへんきびしくなっている。なお、こんにちの鑪地区では畦畔の草刈りについて、「ひとはか」(およそ人の背丈(せたけ))は下の田畑の耕作者が作物のじゃまになることから刈ってよいことになっている。

 江戸後期になると、村中入会山を村中の百姓が割山にして利用することもおこなわれた。更級郡石川村(篠ノ井)上組では、文政九年(一八二六)に小百姓の要求で村中入会地を割山にしている。その割山で日当たりのよい場所は田畑に開発し、耕地に適さないところは松を植えたいと松代藩に願いでている。文政十二年の石川村の一家の記録に、肥料は酒かす・油かす・大豆・綿実(めんじつ)・ふすま・下肥(しもごえ)(人糞尿(じんぷんにょう))などを用いているとある。このように刈敷を利用しない百姓もあり、山野はしだいに開墾や植林がされていった。そのために、小百姓らは継続した山野利用ができる割山を要求したのであった。

 須坂領の高井郡綿内村(若穂)では、割山をめぐる村内の対立を打開するため、藩が天保二年(一八三一)に村中入会山の半分を試みに一〇ヵ年割山にさせた。期限がきてこの割山を草山入会地にもどすことになったとき、割山に立木があったが、割山にするときの誓約にもとづいて立木を切る請書を提出させている(綿内区有)。これは草山よりも林がより有用になってきていたから、木を育てていたのであろう。

 つぎに村々入会の利用とその変化をみよう。高井郡の仙仁(せに)入り一一ヵ村入会は、仙仁・仁礼(にれ)村(須坂市)が山元で、綿内村ほか八ヵ村が入会っていた。文化十一年(一八一四)の入会山定は、つぎの五項目であった。①これまでのとおり鉈(なた)・斧(おの)・鎌(かま)・鋸(のこぎり)で薪を採り、自家用の木材を切りとることは差しつかえない。②入会山の稼ぎをする人馬の通路は通れるように切りひらくこと。③焚炭(たきずみ)(竈(かまど)で焼かない炭)・鍛冶炭(かじずみ)(竈で焼いた炭)の稼ぎは入会村に断わって焼く。④入会山に不案内で内山(うちやま)(山元村の山)などに踏みこんだときは親切に案内する。⑤入会村で牛馬を引きいれて、誤って百姓持林を荒らしたときにあまり苦情をいわない。しかし、みだりに牛馬を放すことはしない。以上のようであった(『県史』⑧八六八)。

 この規定に一〇年後の文政六年(一八二三)に、つぎの四ヵ条が加えられた。①入会山が野火のときには山元村が対応し、防ぎきれないときは入会村々へも連絡する。②入会山を開墾してはいけない。③入会山見(やまみ)(入会管理)は一一ヵ村で一ヵ年に二ヵ村ずつ勤める。④この二つ(②・③)の規定を破った村は、罰金永三貫文(金三両)を差しだす(『長野県上高井誌』歴史編)。規定は入会山利用が円滑にできるように定めており、刈り干しの開始の日の「山の口明け」などは山元の村から入会村々へ触れを出している。また、前記の鑪村では罰則の最終には藩の力を借りると定めていたが、ここではその記載がなく入会村々の合議で解決するようにしている。

 つぎに、松代領の関屋村など二二ヵ村入会における林野利用の変化をみよう(表8)。この入会は、埴科郡関屋と牧内(松代町)の二ヵ村に口をもつ草山入会である。入会村は江戸後期には二二ヵ村であるが、宝永三年(一七〇六)の『上田藩村明細帳』によると、更級郡今井・戸部・上氷鉋(かみひがの)(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)の四ヵ村も入会っていた。つまり、この入会では時代により入会う村々が変化していたのである。入会村は埴科郡が一三ヵ村、更級郡が九ヵ村である。


表8 天保6年(1835)関屋村等22ヵ村入会山札数と村高

 入会村の山札数と村高を比較して、札一枚にたいする石高の割合をみると、平坦部の村々には一枚あたり二〇石台、三〇石台があり、少なくとも高一〇石前後以上で、札の配分割合が少ない。これにたいして、入会山に近い関屋・桑根井・牧内の三ヵ村(松代町)は、一枚あたり四石から五石と多く配分されている。山札の配分はこのように単純に村高によるものでなく、林野利用への依存度も考えてなされていたのである。

 天保四年(一八三三)に里方一三ヵ村が、入会山は山札年貢に見あう利用をしていないので、入会山を入会村ごとの割山にし、立木で炭や薪を売るようにしたいと松代藩郡(こおり)奉行所へ願いでた。これにたいして、山方五ヵ村は割山にすると養い草が不足し、耕作がむずかしくなると反対している。加えて関屋村では、入会山で薪を売って暮らしを立てている小百姓が、割山になると里村の割山へ小作籾を支払って入れてもらわなければならなくなる、と訴えていた。

 紛糾(ふんきゅう)の結果、天保六年七月に示談にこぎつけた。示談書によると、里方一三ヵ村の山年貢籾四〇俵を牧内村で納める。また田中・長礼(ながれ)・加賀井(松代町)の三ヵ村の山年貢籾四俵五升七夕を関屋・欠・平林・桑根井(同)の四ヵ村が引きうける、ということで解決している。つまり、村々の山札数が増減したのである。表9は山札数の増減を示したものである(『日本林制史資料』松代藩編)。なお、牧内村は入会山内において籾四〇俵に相当する場所を専用に利用できることになった。つまり、事実上の村の内山になったわけである。山札数が小数になっているのは山年貢の負担率を山札で計算したからである。長いあいだに村々の林野利用の実態が変化してきたため、それに対応した山札の再配分が必要になった結果であった。


表9 天保6年(1835)関屋村等22ヵ村入会山札数の増減