入会山と市域の村

742 ~ 748

市域の村々が近世に入会っていた主な山は表10のとおりである。それぞれの入会山場所は図14のようである。入会の呼びかたは史料によったが、ここで仮につけたものもある。それぞれの入会山に入会っている村々は、年代によって違いがあるので、史料にもとづいてその年次を記した。表10によって市域の入会を検討しよう。


表10 近世における市域の主要入会山(村々入会)


図14 市域の村が関係する主要入会山の位置

 水内郡の黒姫(くろひめ)山・三登(みと)山(元取(もとどり)山をふくむ)・飯縄山入会には、市域のほか多くの村々が入会っている。これはいずれも山が大きく、すそ野も広いことから、草や薪を多量に得ることができたからである。飯縄山には山元が水内郡の上ヶ屋(あげや)村(芋井(いもい))と北郷(きたごう)村(浅(あさ)川)の二つの入会があった。これらの入会山には水内郡の村々が入会っており、千曲川と裾花川が境になっている。ただし、大豆島(まめじま)村(大豆島)は千曲川の西で水内郡に隣接しているが、更級郡のためか、高井郡保科村山入会に入会っている。水内郡の松代領四〇ヵ村では、三登山と飯縄山へは秣・刈敷の草刈りで入会い、黒姫山へは薪採りで入会っていた(表15参照)。このように四〇ヵ村が遠く黒姫山まで薪で入会っていたのは、三登山や飯縄山が草山であり、多くの村の薪をまかなうことができなかったのだろう。松代領といっても、上野(うわの)村(若槻)など幕府領と分け郷になっている場合は、それぞれが一ヵ村であった。また、枝郷(えだごう)(枝村(えだむら))が一ヵ村に数えられている場合もあった。

 これら三つの入会山には各村々は札をもたないで入会っていた。しかし、飯縄山でも北郷村(浅川)を山元とする入会では、山札が用いられたようである。村明細帳によると、問御所(といごしょ)村(問御所町)は寛政四年(一七九二)に札一枚につき籾一斗八升、栗田村(芹田)は天保九年(一八三八)に札一枚につき籾一斗五升ずつ差しだし、それぞれ山元北郷村に草刈りに入会っていると記載している。このことと関連して、万治(まんじ)二年(一六五九)の北郷村山年貢改めでは、入会札山に問御所村のほか権堂(権堂町)・七瀬(芹田)・三輪(三輪)の三ヵ村を書きあげている。正徳六年(一七一六)の山論では六ヵ村札山とある(『浅川村郷土誌』)。してみると、北郷村の山に札で入会っていたのは四ヵ村から六ヵ村はあったとみられる。

 市域の更級郡村々は、郡内の田野口村(信更町)横山(よこやま)入会に郡内一〇ヵ村が入会っていた。塩崎村(篠ノ井)は郡内の小田原(こだはら)山・権田(ごんだ)山・戸口(とぐち)山(信更町)に入会っていたほか、田原(たはら)山と横手(よこて)山(更埴市)入会に加わっていた。今里・四ッ屋(川中島町)の二ヵ村が裾花川をこえて、水内郡小市(こいち)村(安茂里)の犀沢(さいざわ)山に入会っていた。こればかりでなく、千曲川をこえて高井郡・埴科郡・小県郡の山へも入会っていた。そのことを保科村山、洗馬(せば)山、関屋村ほか二一ヵ村の入会でみよう。

 高井郡保科村山入会では、寛保三年(一七四三)に二三ヵ村が入会っている。そのうち高井郡では山元保科・赤野田(あかんた)新田(若穂町)のほか五ヵ村、埴科郡が一ヵ村、残り一五ヵ村が更級郡の村々である(表11)。埴科郡関屋村ほか二一ヵ村入会では更級郡の村が九ヵ村入会っており、小島田(おしまだ)村(更北小島田町)は両者の入会に加わっている(表9参照)。小県郡の上田領洗馬山入会(真田町)へ松代領からは二六ヵ村が薪の入会をしており、そのうち更級郡からは一〇ヵ村である(表12)。また、この洗馬山には上田領の更級郡岡田村など六ヵ村も入会っていた。しかし、この六ヵ村は享保二年(一七一七)に上田領から幕府領にかわったときから入会わなくなったようである。このように更級郡は西が山地にもかかわらず、大きな山がなかったため、平坦部の村々は千曲川や裾花川を越えて秣や薪を求めていたのである。


表11 保科村入会山の村々山札数の変化


表12 延享2年(1745)松代領村々の上田領洗馬山札

 市域の高井郡と埴科郡の村々は、それぞれの郡の保科村山と関屋村など二二ヵ村入会に属している。また、洗馬山入会には高井郡は保科村(若穂町)だけが入会い、多くは埴科郡から入会っていた。

 入会う村や山札数の変化を保科村山入会(表11)でみてみよう。この入会の山札数の変化は、山札に応じて保科村清水寺へ萱を納入したことから求めた間接的な史料であるが、村々の山札数を示していると思われる。更級郡青木島村(更北青木島町)は最初の年以後に村名がない。山札のうち肝煎札など役職のついた札は、札山年貢を課されなかった。この表のほかにも各村に肝煎札があり、表の札がすべてを示していない。村によって山札数が大きく変わっている村と、変化しない村とがある。このひとつの原因には、入会山内に開発された赤野田新田村との対応があるが、そのことは割山のところで後述する。

 入会の用益である採取物は、それぞれの入会で慣習的に定まっていた。その約束を守らないと、山論にもなった。後述する水内郡小市村犀沢(さいざわ)山入会の元禄五年(一六九二)の山論では、草以外の松を採取したことが争いの原因のひとつであった。