入会林野には、札をもって入会う林野と札のない入会林野があった。松代藩では、この入会札を藩が作成し、管理していた。信州でこのように領主が入会札(山札・馬札)を発行している例は、東信地方にみられる。佐久郡上(かみ)村山入会(南佐久郡佐久町)では、山元村支配の田野口藩が山札を発行していた。同郡八郡(やこおり)村山入会(同郡八千穂(やちほ)村)では、中之条代官所が馬札を発行していた。また、小県郡高梨(たかなし)村(丸子町)の細尾(ほそお)山入会でも、中之条代官所が山札を発行していた。これら入会札の発行は、いずれもそれ以前の領主の仕法を受けついでいる。ほかにも、いくつか領主役所発行の札による入会はおこなわれていた。
信州の幕府領の多くは、山年貢を納めて入会利用していた。上田領では、秣入会の山年貢は徴収しないで、薪入会で山年貢を徴収していた。しかし、松代領百姓が薪入会していた洗馬山入会は、上田領の村々と上田領から分知した矢沢(やざわ)知行所の村々は無年貢であったが、松代領の村々と中之条代官所の埴科郡中之条・金井・横尾・坂木(坂城町)の四ヵ村は、札によって山年貢を納めていた。このように薪入会でも、自領の村々は山年貢を上納しない入会もあった。
松本領では、入会林野に山年貢である野手籾(のてもみ)・山手(やまて)籾を課した。これら山年貢は村単位に賦課したが、賦課高は林野の利用度によって定めている。高遠領でも、大部分の入会山は野手米・山手米を納めていた。高島領では、入会林野に山役米を納めた例はあるが、山年貢を納めなかったようである。
全国的にみると、入会林野に入会うには山年貢を納めていた。山年貢の負担の形として山札のほかに、山稼ぎの道具である鎌(かま)・鐇(ばん)・斧(よき)・山刀(なた)などと、運搬する馬にかけられる場合があった。道具の場合、一丁あたりに山年貢を課し、一丁の入山日数を定めていた。
信州諸領でも、全国の入会でも、山年貢は入会山元村に入会村々が納め、山元村から領主役所に納めるのが通例であった。しかし、なかには入会村々から直接役所に納めていた入会もあった。各所領では山元村の百姓を山見役(やまみやく)・山守(やまもり)・山改めなどに任命し、入会山の管理にあたらせていた。上田領では山改めに扶持(ふち)籾を給付していた例があり、中之条代官所でも山守に役給をあたえていた入会があった。松代領では山札見などに扶持籾をあたえ、藩の下級役職並みに位置づけていた。
こうしてみると、松代藩がおこなった入会山札の発行と入会山管理者への施策は、全国的にみても信州でも異例な仕法であった。つぎに松代藩のおこなった入会林野にたいする諸策をみていこう。
松代藩の入会山札の総数は、天明三年(一七八三)に約二五〇〇枚で、そのうち約二〇〇〇枚が領内村々分、約五〇〇枚が他領村々分であった。前年までは山札を毎年更新して配付していたが、この年経費節約のために領内分の山札は五年間使用することにした(災害史料③)。
入会林野の管理は、山札見や山肝煎・山見・山改め・山廻りである(表13)。これらの役職には入会山元の百姓が任じられていた。老齢病弱などでその役をしりぞくときには、こどもに跡役を願いでており、多くは認められた。ただし、こどもが幼少のときには代役を任じたり後見人を置いたりしている。寛文九年(一六六九)に山札見一〇人は、藩から任命されており、足軽同心組にも組みこまれていた。しかし、安政六年(一八五九)の足軽同心組には山札見はなく、藩の下仕事役人に記されている(『更級埴科地方誌』③上)。
山札見の役給は宝暦十二年(一七六二)まで切籾米(きりもみまい)一五俵であった。ところが、宝暦改革により翌十三年からこのうち五俵を引きあげ、そのかわりに郡役(こおりやく)一人分があたえられた。天明六年には、札見のうち横山札見の役給一〇俵が、山元田野口村(信更町)から直接支払われていた。また、山肝煎・山見などの役給は、それぞれの地域に応じた額が支給されていた。
山札見の勤務についてみると、保科山札見二人はつぎの仕事をしていた(『日本林制史資料』松代藩編)。①二人は二ヵ所の口でそれぞれが厳重に札改めをした。②春は雪明けより、冬は大雪の降るまで山の口につとめた。③十一・十二両月は勘定所へ出勤し、近領への飛脚、勘定所の障子張りかえ、船積み荷物作り、使い番の仕事をした。松代藩の鬼無里(鬼無里村)御巣鷹(おすたか)山が、将軍綱吉の鷹狩禁止を機に元禄七年(一六九四)に御林にかわった。鬼無里山見は入会山管理とこの御林の管理も兼ねて任命されていた。
札山入会の山年貢の徴収を横山入会でみよう(表14)。入会一〇ヵ村(すべて篠ノ井)は塩崎村関係三ヵ村が塩崎知行所分で、ほか七ヵ村が松代領である。この山年貢は、山札見の田野口村利左衛門が入会村から徴収して藩に納めていた。かれは入会札下で納める籾が悪米のため、新町(しんまち)村(信州新町)で売却してかわりに手作りの籾を納入していた。しかし、困窮してこのことが困難になり、安永九年(一七八〇)に領内分の山年貢は村々から直納するよう願いでて認められた(災害史料②)。こうして横山入会の山札見は、他領村分のみの山年貢を納めることになった。入会山管理者が水内郡小鍋(こなべ)村(小田切)・中牧村(信州新町)の入会でも、札下村々から松代藩へ山年貢が直納されていた。
札山入会でない三登山(みとやま)入会ではどのように山年貢を納めていたかをみよう(表15)。三登山の山元は水内郡吉(よし)村(若槻)と袖野山(そでのやま)村(牟礼村)である。宝暦十一年には吉村は飯山領、袖野山村は幕府領であったが、山年貢は幕府の富竹(とみたけ)御用場(古里)に納めるように命じられている。山年貢高(銀)は村高と照応していることがわかる。入料夫銀高も山年貢高に〇・七八三倍した高である。しかし、納める山年貢高は、高一〇〇石につき永一文六分二厘八毛という割合の永三一九文三分(金一分と永六九文三分)である。この年の山年貢納入責任者は、下(しも)高田(古牧)・千田(せんだ)(芹田)・中越(吉田)の三ヵ村総代であった。なお、これより六年後の明和四年でも、山年貢高は宝暦十一年と同じであった。寛政四年(一七九二)十二月には、入会総代中越村(吉田)幸七の名で、松代藩がこの山年貢を中之条代官所に納めている(災害史料⑤)。このときの山年貢高も金一分と永六九文六分であった。以後、村高に変移があっても、この金額が継続されていったようである。
上田領洗馬山入会は薪入会で、松代領分の山札は大札(おおふだ)で一〇三七枚分あった。じっさいは大札が八八七枚、半札が三〇〇枚であった。山札は札改め場で改められ、松代領入会村々が特別に利用できる入会の札場があった。この山札管理人を札元といい、更級郡今井村(川中島町)作兵衛と埴科郡桑根井村(松代町)市左衛門がつとめていた。延享二年(一七四五)から表12の世話札の村、東寺尾村(松代町)酒井三之丞と荒町村(同)高橋政右衛門にかわった。以後、この酒井家と高橋家が世襲した(『真田町誌』)。
延享二年に、寛保二年(一七四二)の大水害で耕作地が激減したとして札数の半減を上田藩へ願いでて、山札が五一三枚に減額された。五一三枚のうち三六四枚が大札で、残り一四九枚分は半札で、札数は二九八枚である。延享二年には大札は一枚籾五升、半札は二枚で籾五升ずつで、上田藩の定めた両替値段で山年貢を納めるように指示していた(表12)。なお、両替相場の変動により年貢納金高は年々かわるが、寛政四年は金一二両二分銀一三匁一分(ふん)一厘であった。
山年貢を村ではどのように徴収していただろうか。更級郡上布施村(川中島町)の天明七年(一七八七)の村定めに、山年貢は以前から惣(そう)高割り、すなわち石高所持に応じて出金させている、とある。同年の水内郡大豆島(まめじま)村(大豆島)村定めでも山年貢は惣高割り、としている。しかし、高井郡赤野田(あかんた)新田村(若穂)では、入会山について保科村(同)と争ったとき、松代藩評定所で取り調べがあった。そのとき、山年貢は戸別に平均割り(軒別割り)で出金し、村人は入会山で草を自由に刈っている、とのべている。これからすると、市域の平坦部入会村々では惣高割りであった。しかし、赤野田新田村のような山元村で、入会山の草を自由に刈りとることのできる村は、軒別割りをしていたと考えられる。