山野境界の不明による山論

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北信濃では、慶長三年(一五九八)・同七年の検地によって村高が確定した。村が責任をもって年貢を上納する年貢村請制(むらうけせい)になると、百姓が田畑を耕作して収穫するための水や肥料(刈敷(かりしき))は、村が確保するようになる。刈敷は、林野で草や木の若葉を刈りとって肥料としたものである。いっぽう、検地は小百姓の自立をうながし、百姓の農業生産意欲を増大させた。多くの肥料をほどこして生産を向上させるためには、刈敷の必要性が高まる。そこで、刈敷の採取をめぐって、入会山論が多く発生したのである。市域で近世初期からの入会山論を原因別にみると、①山野の境が不明なため、②入会林野を開墾や新林でせばめられたため、③入会内の用益の確保などのための三つになる。このなかで近世初・前期には①の原因によるものが多い。そこで、最初にあいまいだった林野境(村境)が、山論でどのように決定されたかをみてみよう。

 天正(てんしょう)二十年(一五九二)、更級郡山布施郷(篠ノ井)と水内郡笹平村(七二会)とが、山境争いで和解している。その内容はつぎの二つであった。①山争いのあったうちの三ヵ所を笹平村分として境を定める。②もし境を越して草を刈った場合は鎌を取りあげる(『信史』⑰四六六頁)。この「鎌を取る」という山道具を押さえる慣習は、八世紀にもさかのぼる古い慣行である。この和解の「鎌を取る」は、笹平村の草刈り場を侵すことにたいする罰則と考えられる。

 つぎにのべるように寛文年間(一六六一~七三)、戸隠山(とがくしさん)神領と松代領葛山(かつらやま)七ヵ村とが飯縄山での境界争いをしている。その訴状には、双方とも主張する境を相手が越えたときに、鎌取りをおこなったことが記されている。境界争いでは、鎌を取りあげ証拠物件として確保したのである。この作法は全国的に広くおこなわれていた。

 中世に葛山郷に属していた上野村(戸隠村)は、慶長七年に分離して戸隠山神領となった。飯縄山は、上野村をふくめた葛山八ヵ村の共同利用地であったために、長期にわたる境界争いとなったのである。寛文十年(一六七〇)に飯縄山境について戸隠山神領衆徒(しゅうと)と上野村が、松代領葛山七ヵ村と飯縄神主を寺社奉行所へ訴えでている。葛山七ヵ村とは上ヶ屋・桜・泉平・鑪(たたら)・入山・広瀬(芋井)、茂菅(もすげ)(茂菅)の村々である。戸隠がわの訴状では「葛山がわが勝手に境界をもうけ、草刈りをしている。そのうえ、草刈り場まで押しかけ、鎌を取って草を刈らせないので、たいへん迷惑をしている」としている。

 寛文十一年五月に葛山がわが返答書を寺社奉行所に提出した。これには「戸隠山神領との境は双方が立ちあって定めた。この場所については山年貢も納めている。戸隠がわこそ境塚を勝手にこわし、おおぜいで鎌を取って木や草を刈らせない」と訴えていた。同年七月の評定所裁許では、戸隠がわの長禄(ちょうろく)二年(一四五八)の縁起にある戸隠山神領の領域を示す「四至榜示(しいしぼうじ)」(土地の境界標識)を証拠と認め、飯縄山は全山戸隠山神領となった(『市誌』⑬二四三)。

 明和三年(一七六六)三月には、葛山七ヵ村がわが上野村を相手に飯縄山境についての訴状を寺社奉行に提出した。同年六月には上野村が訴状に返答をした。これとは別に、戸隠山神領五三ヵ寺は同年五月と六月に、「四至榜示」を証拠に葛山七ヵ村を非難する願書を寺社奉行所に提出していた。神領五三ヵ寺というのは、その当時奥(おく)院一二ヵ院、中(ちゅう)院二四ヵ院、宝光(ほうこう)院一七ヵ院の五三院で神領が構成されていたからである。

 明和五年三月、葛山がわと戸隠山神領とが山争い裁許状請書を提出している。これによると、葛山がわは「山年貢を納めている原山秣場が葛山がわの支配地」とした。しかし戸隠山神領がわでは「この場所は縁起のなかにあって神領内である」と主張した。裁許では領境は寛文の裁許のとおりであるが、草刈りの場所は葛山がわとして認め、ここに入会う上野村は山年貢三俵一斗余を葛山がわに納めることとなった(『県史』⑦一三七四)。このことは、裁許では現実の草刈りの事実を認め、それにもとづいた判断がなされるようになってきたことを意味する。


写真9 飯縄山と黒姫山

 天保の飯縄山境争いは、天保六年(一八三五)二月に荒安(あらやす)村(芋井)に里宮のある飯縄神社神主仁科(にしな)甚十郎が、戸隠山神領衆徒と上野村を訴えたことから始まっている。訴状では「戸隠山神領のものが神社の神事を妨害し、そのうえ本宮まで奪いとろうとしている」と書きしるしていた。同年七月に神領がわからの返答書が出された。同七年から八年にかけて、両者の代表が江戸へおもむき、寺社奉行所で対決した。同八年十月には、江戸から現地検証の役人が派遣されてきている。

 天保十三年正月に評定所の裁許が出された。この内容は、「今まで戸隠がわの飯縄山支配の証拠とした『四至榜示』は、縁起以外に認めるものがなく、証拠として認めることはできない。寛文の裁許はまったく誤りで、飯縄山は全山仁科甚十郎の支配するところである」となった(『県史』⑦一三九六)。裁許がかわったのは、縁起以外に飯縄山を戸隠山神領とする史料がなく、近世初期の領有関係や飯縄神社の現状にそくした判断だったと思われる。

 裁許では入会境については今までのとおりとしたが、寛文・正徳年度の裁許絵図や明和年度の裁許は無効とした。そこで、飯縄山境や入会境を確定するため、寺社奉行所から役人が二人出向いて見分した。そして、天保十五年十一月に仁科甚十郎の支配する飯縄山と付属する霊仙寺山、戸隠山神領と葛山七ヵ村入会境、幕府領・私領七四ヵ村入会境が確定した(『市誌』⑬二六一)。

 貞享(じょうきょう)三年(一六八六)十月、水内郡上野(うわの)村(若槻)と東条(ひがしじょう)村(同)に、山境(村境)争いの幕府評定所裁許が出されている。上野村のいい分は「三登山にある虎ヶ塚から峰通りが境で、内山(自村の山)には境堀四ヵ所、沢道が二筋、薪や秣をおろす道が一一筋ある。この場所に東条村のものが入りこんで秣・薪を採っている」と訴えていた。これにたいして東条村では「そこは日影平といって古来から東条村内である」と返答していた。勘定所役人が検分した結果、上野村の主張に沿って境が決定された(『若槻史』)。

 入会山境(村境)争いは、林野利用を左右する重要な境界となるので、裁許で決定されていることが多い。裁許は表がわの絵図で、境界に墨筋を引き、絵図の裏面に裁許状を記す。