つぎの山論は、入会林野が開発されたことによる争いである。近世初期に自立してきた小百姓は、家族労働で鍬を使って開発をすすめ、多くの肥料をほどこす農業経営をするようになった。このためには新たな農地が必要になり、いままでの入会地も開墾されることになった。
寛文八年(一六六八)五月、水内郡の長沼領一三ヵ村・赤沼知行所五ヵ村・松代領四〇ヵ村の里方五八ヵ村が、幕府領天羽(あもう)七右衛門代官所の二二ヵ村新田百姓を入会林野開発で訴えている。新田村々の場所は、霊仙寺山と飯縄山のすそ野で、北は鳥居川から南は伺去(しゃり)新田・福岡新田(浅川)までである。訴えによれば「新田の百姓が二〇年ほど前まで草を刈っていた場所を開発し、田畑を開き、新林を一九ヵ所も育てている。そのため、草場がせばまって百姓が立ちゆかなくなるほど迷惑している」とした。これにたいして、新田百姓の返答書では「この場所は四九ヵ年も前から開墾している。そして、一六年以前には検地をうけ、検地帳に載せて年貢も納めている」と主張していた。
検使役人が見分したところ、立木の太さは三尺から四尺にも育っており、二、三十年で成長した木とは見えない。そこで、里方の村のいい分がとおらないことになった。裁許では、今までの新田畑と新林はそのまま残し、これからは入会地に新田畑を開いたり、新林を立てたりしないことになった。また、現在の信濃町富士里地区では、新田畑の多い地域を墨引きをし、新田村方だけが利用できる場所を設定している(『県史』⑦一五〇〇・一五〇一)。このようにして、幕府は小百姓が自立して農業を営むのを助けていたのである。
宝永二年(一七〇五)四月、保科村山入会に入会っている川中島一七ヵ村民が、松代領赤野田新田村(若穂)をつぶそうと押しだし、村の立木・栗・柿などの木を残らず切りたおした。騒動になったのは、赤野田新田村のものが無断で入会地を開発したことが原因であった。
赤野田新田村は、慶安(けいあん)元年(一六四八)に牛島村(若穂)百姓利右衛門ほか二人が、三〇石八斗の古荒れ地を開拓したことに始まった。問題になったのは、この村の検地が元禄八年(一六九五)に実施され、同十六年より年貢納入の検地帳に載せられた耕地である。騒動のあった二年後の宝永四年四月、松代藩検使役人が来村し、元禄八年の検地帳をもとに入会山境と村境をあらためた。そして、村高一〇〇石八斗余のうち、村境の外にあった耕地高二六石九斗余が入会地にもどされた。
騒動の結果、一七ヵ村の肝煎(きもいり)は牢舎(ろうしゃ)となり、役目を罷免された。そのうち頭取(とうどり)の更級郡真島村(更北真島町)角之丞と高井郡町川田村(若穂)肝煎甚兵衛は死罪となった。赤野田新田村七兵衛は牢舎となり、所払いとなった。高井郡保科村(若穂)山札見角右衛門は建物・所持地が没収され、所払いになった(「赤野田入会山耕地一件書付」若穂保科 上林友成蔵)。入会村々は、このような犠牲を払って目的を達成している。これは非が赤野田新田村にあっても、厳禁されている徒党を組み狼藉(ろうぜき)におよんだため、犠牲がより大きくなったものだと思われる。