山論の第三として、入会内の争いについて記していきたい。争論の内容は、入会山元村が利用する内山(内野)と入会村が利用する入会地の境界が不分明なことなどで、解決は裁許によっている例が多い。同一所領どうしなら領主役所、異領の村々なら幕府評定所の裁許である。
水内郡山中の松代領橋詰・五十平(いかだいら)・坪根・黒沼・古間・瀬脇(せわき)・岩草(七二会)、念仏寺(ねんぶつじ)(中条村)の八ヵ村を「表八ヵ村」といい、上祖山(かみそやま)・下祖山(戸隠村)の二ヵ村を「裏二ヵ村」とよんでいた。表八ヵ村は裏二ヵ村の内山に入りこみ、山論になった。松代藩役人の検分の結果、寛文十二年に裁許になり、境が決定した。その後、ふたたび表八ヵ村のものは境を越えて裏二ヵ村の内山に入ったということで、訴訟になった。貞享五年(一六八八)五月に、藩役人が検分をし、絵図面で改めて境を表示した。表八ヵ村のものは裁許状を守ることを誓約しながら、不届きであると敗訴になった。そのうえ、頭取七人が牢舎になり、このうち橋詰村新兵衛と坪根村伊兵衛の二人が死罪となった(『七二会村史』)。
元禄五年(一六九二)四月、犀沢(さいざわ)山入会の入会地と内山の境界と、松を切りだしたこととで争いがおこった。入会村の上田領更級郡今里村(川中島町)が、山元の松代領水内郡小市村(安茂里)を訴えた。同七年二月に評定所裁許となった。裁許では入会地の境界を確定し、今里村が木を切りだしていた明神林では松は一本も切らないことになった。なお、入会地内の畑はそのままとし、新しくは開墾しないことが定められた(『小市史』)。
元禄十四年三月、三登山(みとやま)入会の山論に評定所裁許が出されている。この入会山元の幕府領吉(よし)村(若槻)・袖野山(そでのやま)村(牟礼村)が、長沼領・新野(しんの)領(松平義行領)・松代領の入会五四ヵ村と、入会地と内野(内山)境について争ったためである。入会村々は「山元村が山年貢もない場所に畑を開き、入会地内に新林を育てて内野としている」と訴えた。山元村の吉村は「内野境には塚を築き、塚のないところは山の稜線を境界としている。元取山(もとどりやま)入会境は道・沢で山年貢を納めている」とし、また袖野山村は「内野は三登山峰から境沢と東北の塚までで、同様に山年貢を納めている。ほかに、御林では下草銭、百姓林では林年貢も上納している」と返答していた。
検使役人が検分した結果、裁許絵図がくだされた。境塚は吉村・袖野山村の主張どおりであったが、吉村の稜線の境と袖野山村の三登山峰まで内野というのは認められなかった。新たに境界が設定され、入会地となった畑はつぶされた(『市誌』⑬二四六)。この裁許絵図は宝暦年代(一七五一~六四)の裁許でも用いられ、後年の山論解決のよりどころとなった。
正徳(しょうとく)六年(一七一六)三月、幕府領水内郡西条(にしじょう)・真光寺(しんこうじ)(浅川(あさかわ))、高坂(こうさか)・坂口・野村上・夏川・北川(牟礼村)の七ヵ村と、山元の松代領北郷(きたごう)村(浅川)とが飯縄山入会で争い、評定所裁許となった。争論の原因は、七ヵ村の申し分では「九五ヵ村入会地に山元北郷村が田畑を開き、新林を仕立て迷惑している」という理由であった。裁許では、この場所は用水堤を築いたとき、北郷村内と記して地代も徴収しているから、北郷村内山であるとし、裁許絵図に入会地の境界の墨筋を引いて確定している(『浅川村郷土誌』)。
宝暦八年(一七五八)十二月、水内郡三才村(古里)を代表に私領・幕府領五二ヵ村が、幕府領西条村(浅川)・袖野山村(牟礼村)を、三登山入会のことで訴えた。訴状によれば「西条村は袖野山村としめしあわせて、入会地の裁許絵図で目印だった虎ヶ塚を掘りくずし、新たに塚を築き、堀切をつくり、標示杭(ぼうじくい)を立てて入会地に侵入している。そして、畑・萱野・新林をもうけている。また、袖野山村も裁許の塚を動かして入会地を内山としている」とのべている。西条村と袖野山村の返答書では「塚などは入会地でない場所に築いた。この場所は、延享年中(一七四四~四八)に畑・萱野・新林の検地をうけ、年貢も上納している。内山の山年貢を納めている」と記していた。
宝暦十年三月の裁許では、虎ヶ塚は以前のように築くことを命じられ、元禄十四年(一七〇一)の裁許絵図の境を基本とすることになった。そこで、新しくもうけられた塚・堀切・榜示杭は取りはらわれ、西条村の入会地内の年貢上納の林と畑は入会地外へ移動させられた。そして、新規の畑や萱野はつぶされた。袖野山村が新たに山年貢を納めていた場所は入会地とし、その年貢は入会村で上納することになった。
この三登山山論における、宝暦十年三月の裁許にいたるまでの経過を、松代領四〇ヵ村総代中越(なかごえ)村(吉田)幸七の記録をとおしてみてみよう。①同八年十二月、五三ヵ村総代三才村又六の訴状提出。②同年十二月二十七日、明年三月五日に評定所で対決せよとの命令書がいたる。③十二月晦日(みそか)、明年三月二十日までに入会山絵図と返答書を提出せよとの命令書がいたる。④同九年三月二日、絵図作成にあたって湯福(ゆぶく)神社で双方誓詞(起請文(きしょうもん))の打ちあわせ。⑤三月四日、江戸表の評定所へ出向き、誓詞の提出と対決を四月二十五日まで延期することを願いでる。⑥三月二十八日、誓詞を仕上げる。その血判から四ヵ村が脱落する。⑦四月十一日江戸表に着く。⑧四月二十一日、五月二十五日までの延期願いを提出し許可される。⑨四月二十九日、檀田(まゆみだ)村にて血判書を仕上げる。⑩同年五月十六日、江戸へ出立し、二十日に評定所へ届け、絵図を手直しする。⑪五月二十五日、評定所へ絵図を提出、相手も返答書を提出し対決する。⑫五月二十八日・六月一日、吟味。⑫七月八日まで相手方が証拠書類準備のため吟味は休み。⑬七月九日、吟味。⑭七月十一日、絵図では決定困難につき、検使役人を派遣するとの申し達し。⑮七月十二日、帰郷の許可。⑯七月十四日、故郷へ出立、とある。
この記録は松代藩へ届けられている。藩では訴訟の行方を関心をもってみていたのである。評定所では虎ヶ塚を取りくずしたことに不評であり、ほかの事柄からもすでに入会村がわに有利になっていた。宝暦九年九月に、入会訴訟の代表が松代領四〇ヵ村にたいして裁許か内済かを打診したところ、四〇ヵ村は、後年の証拠のためにと裁許を願いでた(「三登山秣場論所訴訟一件書類」吉田中越 宮下忠三蔵)。
山論で訴訟になると、費用が多く必要になった。享保(きょうほう)五年(一七二〇)、本草(ほんぞう)学者丹羽正伯(にわせいはく)が幕府の命令による薬草採集のため、菅平(すがだいら)踏査に訪れることになった。そこで、同年八月に小県郡大日向(おおひなた)村(真田町)など四ヵ村が、大笹(おおざさ)街道筋を高井郡境まで整備した。このことから、高井郡仙仁(せに)入り一一ヵ村入会(以下、仙仁入会と略記)と小県郡五七ヵ村が郡境をめぐって争った。評定所の裁許は享保七年十二月にあり、小県郡がわの主張である分水嶺が境界となった(『真田町誌』)。
裁許のくだる以前、享保七年五月に仙仁入会の綿内村(若穂町)から須坂藩へ訴状が出された。今度の江戸への仙仁入会の訴状では、綿内村が除かれた。その理由は「入会諸費用を惣高割りで仙仁村が請求してきた。入会村々の惣高は七二〇〇石余で、綿内村は村高三〇〇〇石ほどなので、多額の負担をしなければならない。綿内村は内山もあり、保科村山入会・洗馬山入会へも札で入会っている。仙仁入会は村高と関係なく、山高七石三斗での入会である。惣高割りを断わったからといって入会から除かれるのは無理難題であるし、百姓にとっても迷惑である」と記載していた。どのように解決したか不明であるが、綿内村はこののちも入会っている。この問題となった入会諸費用は訴訟によるものと思われる(綿内区有)。
前記した天保十三年(一八四二)に裁許がくだされた飯縄山論では、天保六年七月から一五年間に葛山七ヵ村から仁科甚十郎に助力金二六一両余を差しだしていた。この返済のためか、飯縄山出入り費用のために葛山七ヵ村総代上ヶ屋(あげや)村名主が入会山を質入れしていた。天保十三年にはおよそ二〇〇町歩を地代金一〇〇両で、同十五年にはおよそ二六〇町歩を地代金一一五両で質入れをして大金を得ていた(『芋井村誌』)。このように、山論は勝敗にかかわらず、費用が多くかかり、百姓の負担となったのである。