市域の村々入会山や村中入会山の割山(わりやま)は、近世中期以降におこなわれた。割山には一定年限ごとに割り替える仕法のものもあるが、市域の割山は分割されっぱなしで、その後割り替えされていない。ただし、須坂領では村中入会山を一〇ヵ年の年季で割山している例がある。割山はかならずしも小百姓に平等に分割されず、役高百姓のみに分割されたり、所持高も加味して分割されたりしている場合もある。
村々入会山の割山を保科村山入会についてみてみよう。赤野田(あかんた)新田村(若穂)では、宝暦十四年(一七六四)と嘉永三年(一八五〇)に、保科山村入会地を割山している。この村はすでにのべた赤野田騒動で開発した田畑がつぶされたことがあり、開発には松代藩の許可を得、入会村々からも了解をとっていた。
宝暦十四年に割山された場所は、赤野田新田村が宝暦十三年に入会草刈場を耕地に切りおこしたいと願い出、藩が、保科村山入会にかかわっている村のなかですでに利用しておらず、開発しても差し障りのない村分の山年貢を納めれば、その場所を開発してよいこととしたことによるものである。赤野田新田村の申し出を了解したのは、丹波島(更北丹波島)、柴(しば)・大室(おおむろ)(松代町)の三ヵ村であった。このとき、代官〆木治郎右衛門の「後年においても、入会村の了解が得られれば、開発を許可する」という書き付けが村に下げわたされた。この書き付けは村にとってつぎの入会山開発の根拠となった。
宝暦十三年十二月、入会村々は三ヵ村分の入会地を赤野田新田村の内山とすることを了承している。同年十二月、村では藩との約束である三ヵ村分の山年貢籾五俵、増(まし)山年貢五俵、冥加金一八両を藩に上納した。翌十四年三月には入会山で村の内山境と入会境を定め、内山の区域が確定した。
宝暦十四年六月には、宮城流和算家の今里村(川中島町)赤田常右衛門・村沢吟左衛門が測量し、割山が実施された。地字房峰(ちあざふさみね)など三ヵ所、総計六万八千余坪(約二二・五ヘクタール)で、三ヵ所とも五三区画に分けている。五三は当時の赤野田新田村の総軒数と思われる。平均すると一軒あたりの面積は約一二九七坪になる(『日本林制史資料』松代藩)。なお、赤田常右衛門は村沢吟左衛門の師匠で、赤田の著書『補数授時暦』の序文を村沢が書いている。
嘉永三年の保科村山入会の割山は、山元の保科村(若穂)と赤野田新田村とが天保初年より入会山をめぐって争った結果実現したものである。争いのなかで、天保十三年(一八四二)八月七日、保科村惣百姓総代が江戸城を退出してくる松代藩主の老中真田幸貫(ゆきつら)に駕籠訴(かごそ)した。訴えたのは頭立(かしらだち)総代助之介・同利右衛門・小前(こまえ)総代幸蔵の三人である。
訴状によると、「天保四年に大成谷(おおなりや)を東川田村(若穂町)の秣場(まぐさば)とし、小成谷(こなりや)・仏師裏(ぶっしうら)・町ノ入(まちのいり)・海沼(かいぬま)の四ヵ所を赤野田新田村に開発させた。また、保科村の三郎治と藤五郎の二人にも開発の許可をした。保科村入会山が減少して秣不足のところ、天保七年に赤野田新田村が入会地竪山(たてやま)の割り渡しを申しでてきた。もしこのことが認められると、保科村は近くの草刈り場を失い、田畑の養い草に難渋する。入会村々で山札が不要になった場合は、保科村で札籾を上納すると申しでても、赤野田新田村だけに認められている。そのため、その山札分の入会地が赤野田新田村の内山となる。このままでは、入会山は赤野田新田村のものになり、保科村の百姓は安心できないので、駕籠訴におよんだ」とある。
翌天保十四年十一月二十四日には、赤野田新田村の惣百姓総代頭立三郎右衛門・同曽右衛門・村役人総代組頭吉蔵の三人が、江戸の松代藩目付役所に愁訴(しゅうそ)した。これにたいする同年十二月の尋問書によれば、「赤野田新田村では、入会山へ入山しなくてもよい入会村と相談してきた。その村の不要の山札分を藩に納入して入会地を内山とする願いが、保科村の反対で差しとめとなった。これでは宝暦の代官書き付けが反故(ほご)になってしまい、赤野田新田村のものは承服できないので、恐縮をかえりみず愁訴に江戸へおもむいた」とある。
出府ののちも両村の主張はかみ合わずにいたが、弘化四年(一八四七)十一月、保科村と赤野田新田村の村役人が松代竹山町の白州へ召しだされた。郡奉行山寺源太夫(常山(じょうざん))などの立ち会いで「訴訟では出費も少なくない。善光寺地震の大変災をこうむった村のことも考え、意地の張りあいはやめにしたらどうか」とさとされた。同年十二月、松代伊勢町の町宿(まちやど)周兵衛、同中町の覚右衛門、保科村の伴七の三人が立入人となり、両村の話しあいが成立した。弘化五年(嘉永元年)二月の済口(すみくち)証文によると、つぎのように解決している。①仏師裏など四ヵ所約五万七〇〇〇坪を赤野田新田村の内山とする。②東川田村にあたえられた約四万六六〇〇坪と保科村藤五郎ほか一人に開発を認められた約一万四〇〇坪は引きあげる。③東川田村が上納していた山年貢籾二三俵を減少させて、赤野田新田村が一三俵を納める。④赤野田新田村にくだされた代官の書き付けは返上する、などであった。なお、江戸に出府して訴願したことについては、この出入りが内済で終結した嘉永元年三月に、村の寺社と松代町の長国寺にとりなしを願いでて解決している。六人の分として双方の村で過料銭三〇貫文ずつを納め、六人と訴えた年の村役人はお叱りをうけることで藩の許しを得た。
嘉永三年十二月、赤野田新田村では内山と認められた入会山を割山している。割山は一人分が五四区画に分割した土地二口と、一区画を一一人持ちの土地一口である。分割した土地には名前が記されているが、女性らしい「ちの・はつ・まて」の名前もあるので、土地は軒別に平等に分割されたと考えられる。新田村ではあまり身分上の違いがないことも、このように分割された理由であろう(『日本林制史調査資料』 岐阜大学蔵)。