村中入会山の割山

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つぎは村中入会の割山についてみよう。埴科郡東寺尾村(松代町)では、宝暦六年(一七五六)十一月に村中入会山の割山について藩の許可を得、その請書を提出している。つぎの三点を記している。①村中入会草山の一ヵ所を勝手に草刈りをしないよう人別持山にしたいと願いでた。そして、代官所手代の立ち会いのもとに役高軒数五五軒に割りあい、人別持山にした。②山の高低、場所のよしあしには増坪で不公平のないようにし、場所はくじできめた。③ほかの三ヵ所の草山は小百姓をふくめ村中入会で刈ることにした、という。このように東寺尾村の割山は役高の家のみに割りふられて、小百姓は少しも恩恵に浴していない。小百姓にとっては村中入会地が減少し、草刈り場が少なくなっている(『更級埴科地方誌』③上)。

 安永四年(一七七五)六月、水内郡小市村(安茂里)の村中入会山が、山年貢籾六俵増しで、松代藩から割山を認められている。同月に更級郡小松原村(篠ノ井)でも、山年貢籾一俵増しで松代藩から村中入会山の割山を認められている。割山の詳しい内容は不明だが、松代領の村々で割山が進行していたことがわかる。松代藩では、問題がなければ山年貢を増すことで許可していたのであろう(『松代真田家文書』 国立史料館蔵)。

 文政九年(一八二六)八月、更級郡石川村上組(篠ノ井)は村中入会地を割山とする取りきめをおこなっている。割山は小百姓の新田開発の要求からなされ、松代藩へ冥加籾を上納することで許可された。取りきめ書ではつぎのことを定めている。①入会山を三ッ割りにし、三分の一を持高割りに、三分の二を軒数割りにする。②高割り地・軒数割り地とも開墾したり木を育てたりしない。もし、粗朶(そだ)など仕立てたら三年以内に切る。高割り分は田地譲り渡しの節は田地の高に応じて譲渡してよいが、軒数割り分は売買してはならない。③田地養いの入会地を割山としたので、軒数割り地で田畑の肥料の草をととのえる、などを決めている。高持百姓に有利に割山されている(田中薫『近世村落の動向と山中騒動の研究』)。

 天保二年(一八三一)十二月、須坂領綿内村(若穂)で村中入会地の割山をし、その請書を藩へ差しだしている。これより二年前の文政十二年八月には、村は藩に、村中入会山の割山を望む組があるが割山は無理という上申書を提出している。その理由として、①入会山は田地を養うためのもので、持高割りにすれば、田畑譲渡のさいにその分の入会山も渡さなければならない。いっぽう軒数割りにすれば、家ごとに持高が違っていることに照応しない。②割山にすれば、それぞれが木を立てたり薪山とするので、村全体で草が不足する。③割山として渡すと、生計が困難なときには割山を譲りわたす人も出てくる、などと記していた。しかし、藩役人は、一度に割山をすることが困難なら、試しに七ヵ年か一〇ヵ年の期限をつけておこなうか、入会山を半分のみ割山にしたらどうかと提案していた。

 天保二年の割山は一〇ヵ年の期限付きで、村中入会山の約半分を割山にしている。割山は村の各組に分けることとし、一五ヵ組に一組あたり一八町余である。割山は三ヵ所ごとに測量をし、三ヵ所それぞれに番号を一から一五までつけ、三ヵ所を組み合わせて平等になるようにしている。そのほか、山付きの組と山から遠い組には割り増し地があたえられた。各組では分配された場所を軒割りで組内に分けている。三ヵ所の割山の測量は加藤長兵衛・西原軍治など四人がおこなっている(『県史』⑧六〇九・六一〇)。

 塩崎知行所更級郡今井村(川中島町)は、天保九年七月に上田領岡田村(篠ノ井)と今井村が山元の入会郷内山(ごうないやま)を割山している。郷内山の地籍は岡田村分内にあるが、この山は今井村と岡田村との共同の所持地である。享保三年(一七一八)の今井村明細帳には、「今井村は岡田村と以前からのきまりで、郷内山へ入会って芝草を刈っている。ただし、山年貢は地付き山(今井村の山)なので納めていない」とある。

 郷内山を二ヵ村に分け、各村は村内で割山をしている。今井村は割山を実施するにあたって、つぎのことを申しあわせている。①割山は各自が所持するが、当分のあいだとする。②どのように家計が不如意になっても、割山を売ってはならない。③割山で盗み刈りしたときは、村定めのとおり過料として酒三升・銭三貫文を差しだす、などであった。割山は二四一口に分割されている。今井村の軒数は文政十年(一八二七)に二一五軒、慶応元年(一八六五)に二二二軒である。そこで、割山は全戸に配付されたと思われる。軒数より多いのは、割山をあたえられた本郷組六八人のなかに寺が二軒あるので、百姓以外にも分与されたことも一つの理由であろう(川中島町今井 羽生田光治蔵)。現在、この場所は岡田川上流地域に「今井郷内」という地字で、その名をとどめている。

 保科山入会地の割山を和算家が測量し、綿内村の入会山割山では測量の方法まで記録されている。また、石川村の入会地では割山の図も付加されている。割山にあたっては和算を利用した測量がなされたものであろう。


図15 石川村上組西之入面割図
(田中薫『近世村落の動向と山中騒動』による)