松代藩の御林(おはやし)は、三代藩主真田幸道(ゆきみち)の寛文年中に成立し、宝永六年(一七〇九)には二〇ヵ所の御林がもうけられている。安永六年(一七七七)の「道橋方懸リ山見其外(そのほか)御林見覚」には一七ヵ所の御林見(おはやしみ)・藪見(やぶみ)が記されている。このうち市域では、西条(にしじょう)御林(松代町)二人、関屋(せきや)御林(同)三人、小松原段野原御林(篠ノ井)一人である(災害史料②)。幕末の嘉永五年(一八五二)三月作成の「御林二五ヶ所絵図面」(長野市博蔵)には、つぎの二五ヵ所が描かれている。小網(おあみ)・上平(うわだいら)(坂城町)、山田(上山田町)、若宮(新)・羽尾(はねお)(戸倉町)、八幡(やわた)・森(新)・倉科・倉科(新)(更埴市)、西条・関屋・柴(しば)(松代町)、八町(はっちょう)(須坂市)、小松原・村山(篠ノ井)、代(だい)・代(新)・南小松尾・北小松尾(大岡村)、権田(ごんだ)・味藤(信州新町)、虫倉(中条村等)、鬼無里(きなさ)(鬼無里村)、佐野・沓野(くつの)(山ノ内町)の各御林である(新は新御林)。このうち長野市域には、西条・関屋・柴・小松原・村山の五ヵ所がある。
御林は道橋奉行所によって管理された。道橋奉行所は、奉行二人、元締三人、手付小頭格一人、手付二三人、仲間(ちゅうげん)小頭兼一人、雇足軽一人、仲間二人で構成され、御林に関してつぎのような任務をおこなった。①御林内の立ち木や採取物の見分。②御林内の御請山(うけやま)開発申請地の見分と冥加籾(みょうがもみ)の割りあて。③苗木の植えつけの督励と植えつけ苗木の見分。④普請用材木、払い下げ雪折れ風倒木の伐り出しの許可と立ち会い。⑤盗木の取り締まり。⑥山火事の取り締まり。⑦切りだした材木の運搬の指示。⑧材木の払い下げ。⑨御林下草などの利用許可。
御林の現地の管理者として、御林見が任命された。村の有力百姓が任命されることが多かったが、元山主や鷹巣(たかす)山の巣守(すもり)の系譜をひくものなどが任命され、代々世襲的にその役職を受けついでいる。役料として郡役(こおりやく)一人分(籾六俵)のほか、御林の立ち枯れ木・雪折れ木・風倒木などの払い下げをうけている。また、功績によって永帯刀(えいたいとう)・羽織(はおり)着用など身分上の特権があたえられている。
御林見の仕事は、藩用材の伐り出しおよび川除(かわよけ)普請用材・村用水普請用材の伐り出しの現地確認監視、搬出人足の指図、御林の見回り、盗木の防止など管理的なものが第一である。とくに盗伐防止が重要任務であった。また植林のほか御林境焼(さかいやき)や下草刈り、下枝打ちなど造林育成に関するものがある。
藩は御林を専有的に使用するために、それまでその山に自由に立ちいってきていた村人の入山を禁止する取り締まり規定を定めている。元禄七年(一六九四)の禁令では、木を盗みとったものから木一本につき銭二〇〇文、五人組から銭一〇〇文の過料(罰金)を取ると規定している(『松代真田家文書』 国立史料館蔵)。享保十五年(一七三〇)には、御林周辺の村から、①御林に入って薪を盗みとったものからは、薪一束について銭三〇〇文、五人組からも銭三〇〇文を取りたてる、②山見の盗木は、詮議(せんぎ)のうえきびしく処罰する、③御林から盗木して売買した場合は、その売買先まで詮議して過料を申しつける、④馬を使った盗木は、過料ですまさずに藩役所に訴えでる、などについて順守を誓った請書を出させている。文化九年(一八一二)笹平村(七二会)は三役人の連名で、御鷹山であった虫倉御林へは入山しないこと、近山へ通行しないこと、木は一本たりとも切らないこと、御林に馬をつながないこと、御林見の制道(せいどう)(入山規制の実行)にしたがうことを誓っている(『県史』⑦八九四)。
御林の中心的な役割は、藩用材の供給である。その事例として享保年間の伐り出しがある。
享保二年、松代町で発生した湯本火事で藩士屋敷九六軒、町家八〇軒、百姓家一七軒、二寺院が焼失し、松代城の二の丸・三の丸も類焼した。同年、松代藩では城を再建するため、御林からつぎのように材木を伐りだした。①上平(うわだいら)御林から材木五七六四本、鹿料(ししりょう)一七二梃。②代・小松尾・味藤御林から大小丸太三五九六本、杉材七一一本。③柴御林から材木三八本。
翌享保三年から六年にかけては、上平・羽尾・八幡御林など千曲川上流地域の御林と沓野御林や鬼無里御林から、延べ一万一六一〇本の材木を伐りだした。羽尾・八幡・上平御林からは松の角材を、沓野御林からは檜榑(ひのきくれ)と鹿料を、鬼無里御林からは角材と鹿料を採材している。市域の御林からの採材はおこなわれていない。
伐採および製材は、杣(そま)・木挽(こびき)・大工が従事し、地元杣ばかりでなく鹿料や榑木を製材する技能に長じた高遠杣も導入された。運搬にあたる鳶(とび)の手当て・扶持米(ふちまい)および駄賃などの経費にあてるため、材木の一部を売却したり、末木(うらぎ)・枝木・落木などを払い下げている。
このほか藩が認めた御普請(ごふしん)(川除普請や用水普請)の用材、自普請(じぶしん)(用水や溜池の普請)の用材として御林からの伐り出しを認めている。杭木(くいぎ)・笈木(おいぎ)・枠木・ませ・貫(ぬき)などに用いる松や雑木、結束材料として白口(しろくち)(藤つる)や柵(しがらみ)を組むための麁朶(そだ)などが採取された。まれには山の岩石も供給された。
また、屋根を葺(ふ)く萱(かや)も刈りとられ、藩士の屋根の葺き替えのほか寺社への寄進にあてられた。松飾りの松も城内の各建物に飾るため大量に必要であり、大名が通行するときに宿場の本陣を囲う松葉も採取されている。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水によって壊滅的な被害をうけた村を再建するために、住居建築用材として御林からの雑木を支給している例もある。
御林の山元の村や近隣の村にとって、広大な御林は薪、刈敷(かりしき)や干草となる下草(したくさ)、落ち葉、用材伐り出しのさいの末木(うらぎ)・枝木などは貴重な資源であった。村から願いでて、御林下草銭を払って利用を認められている。また飢饉(ききん)の場合には、御林は貴重な食料の補給源ともなった。近隣の山野を掘りつくして、御林内で葛(くず)の根、わらびの根、ところ(山芋の一種)などを掘りとって飢えをしのぐため、村から願いだされている。
営利目的の御林利用もおこなわれた。藩にとって、そこからの冥加金(みょうがきん)は藩財政の収入源となった。宝暦年間ころから御林の立ち木などを払いさげて、その収益から運上(うんじょう)をとる策がとられた。御林の運上払い下げには、村請山(むらうけやま)と個人請山があり、どちらも地元の御林見と村役人が願書に意見を付して上申している。沓野山の場合、地元の沓野村請けが多く、御林の管理経営に地元村が協力したことにたいする反対給付でもあったと考えられる。
個人請山は、明和年間(一七六四~七二)以後増加している。沓野山の例でみると、相之島村(須坂市)の藤吉と沓野村の名主藤内が願い人となって、安永八年(一七七九)から天明八年(一七八八)までの一〇年を年季として冥加金一二〇両で、山稼ぎを許されている。契約書には、①採材場所、②取材種目、③伐採造材の杣(そま)・木挽(こびき)・屋根板割・桶(おけ)木取り職人・炭焼き人夫などの入山者、④入山者個々への腰札(こしふだ)(許可証)の交付、⑤取り締まり違反や越境をしないこと、⑥山小屋での生活資材の搬入や生産材の搬出時の通行口などが契約されている。
松代藩の御林は、運輸上の制約もあって全国市場とむすばれていなかったため商品としての市場圏が狭く、請山も小口の需要に応じた経営規模でおこなわれた。そのため御林全面にわたる伐採もなく、植樹造林もしないで自然更新にまかされることが多かった。
天保年間(一八三〇~四四)以降、資源の枯渇を防ぐため植林がおこなわれた。更級郡羽尾御林の場合、苗木のなかでは唐松(からまつ)が五〇パーセント以上を占め、大量に植えつけられたが、立ち枯れ率が七〇パーセントと根付きの悪さが目立っている。杉や檜(ひのき)・椹(さわら)など用材になるまでに年数がかかる樹木は苗木割合が二〇パーセント弱と少なく、その苗木の立ち枯れも多い。藩から桐の苗木の植えつけを指示されたが、干ばつで立ち枯れになったとの報告が出されている。
御林内の漆(うるし)も有用樹として育てられている。漆の実は蝋(ろう)の原料となり、樹液は攪漆(かきうるし)として採取された。安永九年、関屋御林で御林見と関屋村役人から「御林の漆の木が枯れて減少し、攪漆の用に立たなくなっている。苗木立を増やしたい。御林内をまわって苗木を見つけ、添え木をして御用漆木と表示して村人が手をつけないようにし、材木伐採や萱の刈り取りでおおぜいが入山するときは御林見が制道していためないように保護する。春秋には、苗木改めをして木数を記帳して漆方奉行へ報告し、漆の増加をはかりたい」という上申書が出され、郡奉行からそのむね申しわたされている(災害史料②)。
栗は、高井郡小布施村(小布施町)に近世初頭から栗御林がもうけられ、村から年貢として栗が上納され、将軍への献上品などに用いられた。安永六年には、干ばつのため実りが悪く、虫食いや形の悪い小さい実ばかりで、作柄状況の検分をうけている。また寛政十一年(一七九九)には、大風で栗が吹き落とされる被害をうけ、献上分量の確保に苦心したことを報告して、籾年貢の減免を求めている(災害史料②・⑥)。
このほか、天保年間には、杏(あんず)苗の植えつけも広がっている。また、羽尾御林にはぶどうの植えつけもおこなわれ、成育を助けるために藤などを刈りとるよう藩役人が御林見・村役人に指示している。杏やぶどうなどは、藩の殖産興業政策の一環として導入されたものであろう。また、養蚕をさかんにするため埴科郡関屋御林には吾妻銀右衛門(あがつまぎんえもん)によって大規模な桑園が開発された。