善光寺が領有する山は、朝日山(旭山)と大峰山(大峯山)である。慶長六年(一六〇一)徳川家康は、善光寺に寺領一〇〇〇石を寄進し、水内郡長野・箱清水・七瀬河原の三ヵ村と三輪村のうち六九石が善光寺領と定められた。箱清水村にある大峰山も寺領となったと思われる。同八年朝日山が善光寺の造営料所として指定された。こうして朝日・大峰両山は幕府が認めた特別の山、「如来の御山」とよばれ、善光寺の建造物の建設修理に要する資材を供給するとともに、寺に供える松や花、二駄切り(寺で使用する薪)のほか松茸(まつたけ)などを上納する山となった。そのため、善光寺は山定(やまさだめ)を取りきめて山の利用を規制し、山見をおいて山の監視・管理にあたらせた。正保(しょうほう)二年(一六四五)、三輪村にかわって水内郡平柴(平芝)村が朝日山を管理する村として寺領となり、箱清水村とともに山元の村として造営資材などの上納の労役を負担し、山見の指図で山の見張りをおこなった。
貞享(じょうきょう)二年(一六八五)、平柴村百姓が朝日山の山見の不法を訴えた。訴えは、山見の新法度によって他領からおおぜいのものが入りこむため山が荒れてしまうので、山元村として看過できない。万事先規のとおりにしてほしいとして、山見の不法を列挙している。それは、①山見が山札を売買し、その値段は四枚で七両にもなり、四ヵ村がこれを買いうけて入山している。②五月の刈敷刈りのときに、三日山と称して一人一〇〇文の山手をとって三日間利用させるため、川北・川中島から二〇〇〇人にもおよぶ入山者がある。③小柴見村の供応をうけ山手銭をとって利用させている。④他領のものが入山するのを平柴村が任務として制道すると、山見の怒りを買う、など一七ヵ条にもおよんでいる(『県史』⑦一二七一)。
要するに、山見が私利をはかって他領のものに山を利用させ、山を荒らす結果になると指摘し、山元村としての権益が侵されることに抗議したものである。山見と箱清水・平柴両村との争いはたびたび発生している。またその背景には、周辺の他領村々の百姓にとって、かつては利用できた木材・薪・刈敷など日常生活や生産に欠かせない林野資源が、寺領の御山になったため利用できなくなったことがあると思われる。
翌貞享三年、善光寺役所から朝日山・大峰山の山定が出された。朝日山定はつぎのとおりである。①朝日山は寺領第一の山である。山元の平柴村は山見と同様に油断なく守り、山荒らしがあったら山見と立ちあって吟味せよ。②他領・寺領を問わずいっさい入山を禁止する。以前からの入山者もよく調べたうえで許可し、無札の入山は禁止せよ。③古根・古株を掘りとってはいけない。御用の場合以外は、鉈(なた)・鐇(おの)・鍬(くわ)を山へ持参することを禁止する。④畑の開発は禁止する。⑤上ゲ木(寺に納める木)は、古例のとおり春中三日かぎりに伐りととのえて上納せよ。⑥二駄切り薪も指示されたら三日以内に上納せよ。⑦立ち枯れ・風折れ木は古例のとおり杣取りせよ。⑧松茸番は、前々のとおり出はじめから終わりまで、指図によって勤務せよ。⑨竹は御用のほか切りとってはいけない。竹の子とりは禁止する。⑩くね木は前例のとおり許可を得て伐ってよいが、御用木(松)は伐採を禁止する。⑪刈敷は指図をうけて刈ってよい。ただし山の口明け以前はいけない。刈りとるとき御用木の実生(みしょう)を刈ってはいけない。松以外の萱・そだは刈りとってもよいが売買は禁止する。⑬山見の私欲行為は隠さず報告する、など一三ヵ条の厳守を命じている(『県史』⑦一二七二・一二七三)。大峰山についても同様に箱清水村に示されている(『市誌』⑬二四四)。
山定は、寺内の堂照坊など一五坊にたいしても示され、一五坊は請書を出して山札の貸与をうけ薪取りを許されている。その規定は、①御用木は、たとえ下枝一葉でも、古根・古株・古枝でも採取せず、ただ下草だけ刈りとる、②道具は鎌だけとし、鉈など山に持参しない、③山札は貸札・売札は禁止し、札改めにはきっと持参するという内容であった(『県史』⑦一二七四)。
山に入るためには山札が必要であった。貞享四年の山札はつぎのように貸与された。大勧進分五〇枚、大本願分三九枚、寺内(衆徒・中衆・妻戸)四六枚であるのにたいして、町方・村方は二六枚であり、そのうち箱清水村一枚、平柴村一枚であった(元善町 大勧進蔵)。寺内で大部分をとり、町方・村方への貸与札数はごくわずかであった。
山定に違反した場合は、きびしい処罰がおこなわれた。享保二年(一七一七)箱清水村の甚右衛門は、大峰山の松を二本盗んで山見に見つかり、家屋敷・家財没収のうえ五里四方追放の処分をうけている(『長野市史考』)。また天保九年(一八三八)には、箱清水村の佐次兵衛らが枯れ枝葉・朽ち木などを背負ってきたところを待ちうけていた山見の手入れをうけ、手鎖囲い五日の刑罰に処せられた(箱清水 内田雅雄蔵)。
朝日・大峰両山から建築用材木がもっとも多く切りだされたのは、元禄十年(一六九七)から開始された善光寺本堂の再建のときである。本堂は、慶長四年(一五九九)に豊臣秀頼によって再建されたと伝えるが、元和元年(一六一五)の雷火で焼失し、その後建てた御堂も寛永十九年(一六四二)の火事で類焼して、仮堂を建てただけで推移してきていた。ようやく元禄十年に再建されることになり、大量の材木が尾張領木曽の奈良井山、松本領の中房山・烏川などから集められた。しかし同十三年の火事で普請材木も焼失し、工事は中絶した。幕府の命をうけた松代藩が工事の監督にあたって再開し、宝永元年(一七〇四)から工事を開始して同四年に完成した。材木は千曲川最上流の村々から集められた。善光寺造営料所である朝日山・大峰山でも、建設用材として大量の材木が伐採された。立ち木のほとんどが切られ、「如来様御普請この方大分荒れ、松木ともに御座なき躰(てい)」になった。伐採運搬にあたる山元の労役提供も大きく、元禄十年二月に、平柴村は、小百姓は朝夕の食物もないので、世間より安くてよいから杣取(そまとり)の日用(ひよう)銭を支給してほしいと願いでた(『県史』⑦一二七五)。
朝日・大峰両山とも林野資源が枯渇する事態となったため、大勧進は「御用木はもちろん、松葉・下草・ごみともに村中へ急度御法度(きっとごはっと)」としたので、元禄十五年、平柴村は「下くずだけでもとらせてほしい」と願いでた。同年の箱清水村にたいする山定では、①山札は村の庄屋に一枚とし、札をもたないものの薪取りの入山を禁止。②刈敷は許可するが、山の口明け以前の刈り取りは禁止する。③以後、松の木のせぶりは禁止する。④用具は、刈敷を刈りとる鎌以外は、鉈・斧(よき)などいっさい持参禁止。⑤山見四人の指図にそむかない。⑥田畑の開発は禁止する、などと規制を強化している(『県史』⑦一二七七)。
そして、正徳二年(一七一二)から享保元年(一七一六)までの五年間、留山(とめやま)にして森林資源の育成をはかった。そのあいだは、山札を取りあげ両山への入山を全面的に禁止した。留山について、善光寺領八町三ヵ村の名主・組頭から請証文が出されている。また、寺内の堂照坊など一五坊についても、これまで家来を一人ずつ山へ行かせて薪などを採取してきた山札を回収して、五年間の利用を停止した(『県史』⑦一二七八)。
この五年間は、二駄切りの上納も免除された。二駄切りは領民に課せられた夫役(ぶやく)で、一人二駄ずつの薪を山から切りだして寺に上納し、寺の燃料とされた。正徳二年、平柴村では二四人が四六駄の薪を納入している。うち二人は一駄ずつの納入である(元善町 大勧進蔵)。
享保二年の明山(入山禁止の解除)にさいし、あらためて山定を示して順守を誓わせている。さらに、寛政十二年(一八〇〇)には、御山における松木の伐採禁止を確認して、家の建築で購入した松材についても届けをさせ、無届けの松材を所持していた場合は吟味ぬきで手鎖五〇日の刑にするなど(『県史』⑦一二八一)、松にたいする規制を強化した。
松茸は上納物としてきびしく管理され、山元村では出はじめから終わりまで松茸番を義務づけられ、山見と立ち会って数を調べて上納した。元禄十一年には朝日山で松茸盗みがあり、番人の不調法として詮議(せんぎ)をうけ、小柴見村・平柴村では村中が神水(しんすい・じんずい)(神前に供えた水を飲んで誓う)をしている(『県史』⑦一二七六)。嘉永二年(一八四九)には、箱清水村の三人が松茸上納の請負を願いでている(箱清水 内田雅雄蔵)。
松は御用木としてその伐採をきびしく禁止された。山元村で松材が必要な場合は、つぎの例のように伐採を願いでて許可をうけた。箱清水村は文化四年(一八〇七)、長雨でくずれた土手の普請に必要な杭木五〇本を大峰山のうち花岡平から根切りすることを願いでている。同六年には、東西の堤の中土手に伏せる底樋(そこひ)の用材として五間の松の根切りを願い(箱清水 金井省三蔵)、さらに嘉永五年(一八五二)には、地蔵堂の修理のため大峰山の材木の頂戴を願いでている(箱清水 内田雅雄蔵)。平柴村では、文久三年(一八六三)に裾花川にかける橋の用材として「累年のとおり朝日山の小松木を下付してほしい」と願いでて利用した(『県史』⑦一二八五)。