北国往還

784 ~ 788

長野市域を通った近世の主要街道は、北国往還(ほっこくおうかん)(北国街道)である。北国往還は佐久郡追分(おいわけ)(北佐久郡軽井沢町)で中山道(なかせんどう)から分かれ、越後高田(上越市)へ向かう。上田城下を通って、埴科郡矢代宿(やしろじゅく)(更埴市(こうしょくし))へ出る。更級郡丹波島(たんばじま)宿(更北丹波島)で犀川を渡り、水内郡善光寺宿(大門町)、同郡新町(あらまち)宿(若槻)から同郡牟礼(むれ)宿(牟礼村)へ出る道筋と、矢代から松代城下(松代町)、高井郡川田宿(若穂)をへて同郡福島(ふくじま)宿(須坂市)で千曲川を渡り、水内郡長沼宿(長沼)から牟礼宿へ向かう道筋との二本が併用された。後者の道筋は主に犀川の渡し場が船留(ふなど)めとなったときに利用されたため、俗に「雨降り街道」ともいわれた。

 五街道や脇街道といわれた北国往還などの公街道の整備は、ときの権力者や諸領主の治政上、軍事上の必要によっておこなわれてきた。北国往還は、中世以前からの道筋を、戦国時代に越後春日山(かすがやま)(上越市)城主上杉謙信(けんしん)・景勝(かげかつ)が信州川中島への道として整備したものである。天正(てんしょう)三年(一五七五)、謙信は荒井(あらい)(新潟県新井市)に伝馬(てんま)宿送りを油断なく勤めよと命じており(『信史』⑭)、このころ上杉氏の領域内で伝馬制度が整えられていたことがわかる。つづいて天正十一年、景勝は越後・信州の通行について、牟礼から香白坂(かじろさか)(豊野町・牟礼村)をくだって長沼へ通ることを命じ、善光寺へぬける横道通行を禁じた(『信史』⑯二六~二七頁)。慶長五年(一六〇〇)に海津(松代)城主となった森忠政、同八年森にかわった松平忠輝(ただてる)もともに上杉氏の政策をひきつぎ、それぞれ同趣旨の布達を出している(『信史』⑲四四九・五五一頁)。このように、戦国時代末期から江戸時代はじめには、北国往還は牟礼から長沼城下、松代城下にいたる道筋であると定められていたが、禁をやぶって牟礼から善光寺をへて矢代への道筋も利用されはじめていたことがわかる。


図1 東北信の諸街道 いく筋もの道が北国街道から分かれて越後、上州、安曇地方などへ延びている (『信州の街道』郷土出版社)

 江戸幕府は江戸日本橋を起点として東海道・中山道(なかせんどう)・奥州街道・甲州街道・日光街道の五街道を整備した。北国往還についても、慶長八年二月二十日付で、埴科郡坂木(さかき)宿(坂城(さかき)町)に「この御朱印(家康)なくして伝馬いたすべからざるもの也」との朱印定状(さだめじょう)が出され(『信史』⑲四九七頁)、北国往還においても幕府による宿駅の整備が始まったことをうかがわせる。

 慶長十六年八月二十一日付で松平忠輝は、越後から長沼城下へ牟礼から香白坂を通行するよう牟礼宿へ定書を出したが(『信史』21九一頁)、その直後の九月三日には、長沼(長沼)、古間(ふるま)・柏原(かしわばら)(信濃町)、矢代の各宿場とともに、善光寺宿・稲積(いなづみ)村(若槻)にも伝馬宿書出(かきだし)を交付した(『信史』21九九~一〇一頁)。このことは、幕府が以前からの長沼・松代通りの道筋とともに、善光寺町通りの道筋も北国往還として公認し、両者を併用しようとする意思を示したものである。

 慶長十六年九月三日の伝馬宿書出はつぎのような内容である。①御伝馬をつとめるからには、井堀(いほり)・川除(かわよ)けは手前分三分の一だけでよい。よそへはいっさい普請(ふしん)に出るな。②江戸(将軍秀忠(ひでただ))・駿河(するが)(大御所(おおごしょ)家康)の朱印か奉行人連判手形(ぶぎょうにんれんばんてがた)で通すこと。不法のものについては松城(松代)(まつしろ)に注進すること。③宿泊して木賃(きちん)も払わないものは、取りおさえておき注進せよ。④殿様宿泊のとき、お供のものが亭主を内夫(ないふ)に使うことを禁じる。⑤大伝馬(おおてんま)には隣郷人馬を使え。伝馬奉行へ人馬を貸したときは奉行から駄賃をとれ。⑥江戸・駿河の仕法に準じ、伝馬宿の石高(こくだか)掛かり役を免除する。

 また、つづいて慶長十六年九月十日、古間・柏原・野尻(のじり)(信濃町)の各宿場へは、雪深い山間地での伝馬のため屋敷高にかかる年貢を免除し、宿場への助成策としている(『信史』21一〇二~一〇四頁)。宿駅の機能を完備するには、宿場の出入り口を鉤(かぎ)の手に曲折させるなどして通行人や行列の直進を防ぐ町割りをし、本陣(ほんじん)・問屋場(といやば)、伝馬役や歩行(かち)役を勤める屋敷を設置する。また、街路中央に用水路を導き、飲料水や防火用水を確保するなどの対策が講じられた。このようにして、北国往還は慶長十六年に公道として整えられ成立した。以後も社会の動きにつれて、道の付け替え、拡幅、駄賃の公定など各種の改善策が加えられて、公道としての体制が整えられていった。

 松平忠輝のあと松代城主となった松平忠昌(ただまさ)は、元和(げんな)二年(一六一六)九月、領内の宿場、福島(須坂市)・丹波島・稲積村などに、幕府御用の伝馬人足を迅速に出すべきことを命じ(『信史』22三八九~三九一頁)、同四年五月、酒井忠勝も前城主の方策を引きついで、丹波島宿に伝馬印判を示し、六月上・下稲積村(新町宿)の伝馬役も再確認して諸役を免除した(同六〇五頁)。つづいて同六年には水内郡徳間村・東条(ひがしじょう)村(若槻)を新町宿の運営に参加させ(加宿(かしゅく))、新町の宿場としての機能強化をはかっている(同三〇二~三〇四頁)。

 北国往還の沿線には、近隣の村落がそっくり移転するなどして、軒を連ねるようになり、宿場らしい街村が形成された。新町宿は、東条村と上下稲積村と山田村の諸耕地に点在していた民家を街道沿いに移転させ、慶長十六年ころまでに宿駅にふさわしい景観・機能をもつようになった。丹波島宿も、犀川の北がわ水内郡久保寺(安茂里(あもり))に接していた太子(たいし)・米(よね)・押切(おしきり)の各村落を、入殿(いりどの)とともに川南の街道沿いに移し(『町村誌』北信篇)、丹波島宿は渡し場をもつ宿駅として整備された。新町宿につらなる東条村の絵地図を見ると、現集落の西北部に「古屋敷」の小字があり、徳間村にも村東部に「古屋敷」がある(『長野県町村絵図大鑑』北信篇)。これらは北国往還の成立期に集落を移転させた証拠である。なお宿場町などで、表の往還をさけて町裏に「ウラ道」あるいは「オンナ道」といわれた生活通路がもうけられていた例は、稲積・徳間・丹波島・原などにみられる。