北国西往還

788 ~ 789

北国西街道は、善光寺道とよばれる街道のひとつで、筑摩郡洗馬(せば)宿(塩尻市)で中山道から分かれ、松本(松本市)から筑摩郡麻績(おみ)(東筑摩郡麻績村)、更級郡稲荷山(いなりやま)(更埴市)を通り、同郡塩崎村の篠ノ井追分(しののいおいわけ)(篠ノ井)で北国往還に合して善光寺にいたる道である。古代に越後国府に向かった東山道(とうさんどう)支道とほぼ同じ道筋である。この道は、信濃国の善光寺平と松本平を結ぶ通商の道であり、善光寺への信仰の道としても庶民に利用された。北国西街道の成立時期を知る史料としては、慶長五年(一六〇〇)に松本城主石川三長(みつなが)(康長(やすなが))が佐渡(新潟県佐渡郡)の金荷物の伝馬を筑摩郡青柳(あおやぎ)宿(東筑摩郡坂北村)に命じた文書(もんじょ)が初見である(『信史』⑱四一三~四一四頁)。宿馬の不足分は近郷六ヵ村へ割りあてている。同十二年七月、石川康長が筑摩郡刈谷沢(かりやさわ)・中村・仁熊(にゅうま)(坂北村)、乱橋(みだれはし)(同郡本城(ほんじょう)村)の各肝煎(きもいり)に、大伝馬のとき青柳本町の問屋の指示にしたがって、昼夜を問わず計一〇匹の伝馬を出すようにと指示している。

 慶長十八年の大久保長安の死後、松本城主となった小笠原秀政は、長安の小野宿(上伊那郡辰野町)を通る道筋をやめて中山道を塩尻峠を通る道につけかえ、中山道に塩尻・洗場(せば)・本山(もとやま)三宿(塩尻市)をもうけた。これに応じて洗馬宿から村井(むらい)宿(松本市)間の道路を開き村井宿を定め、奈良井(ならい)川(木曽駒ヶ岳から犀川に流入する川)東岸の上野(うえの)(塩尻市)の人家を移して郷原(ごうばら)宿(同)をつくったといわれる。慶長十九年五月、北国西街道へ秀政の伝馬朱印状が出され(『信史』21三八八~三九三頁)、街道の宿駅が整った、とされている。